たそがれ時、丑三つ時と怪異が発生しやすいと言われる時間はいくつかあるが、
陽光輝く日中をその時間帯として挙げる人はほとんどいないはずである。
だが、気が早すぎるのかそれとも只のKYか、その日は日中からある異変があった。
その速さは時速100キロに満たず、その場所は住宅地で、その容貌は老人ではなく少女の
ものではあったが、それでも尋常ならざる速度で駆け抜けるそれは怪異と呼ぶに相応しかった。
件の少女こと葵の表情には僅かに恥じらいの色があった。授業中に化け物の気配を感じて
授業を抜け出してきたからである。
ちなみに彼女が授業中に退席した際の口実はトイレであった。
体調不良では後で保健室に来ていなかったことが判明した際の言い訳が思いつかなかったからだ。
葵は別段エンガチョの烙印が猛威を振るうような年齢ではないのだが、
自己管理ができていないように思われるような気恥ずかしさがあったらしい。
そんな葵の耳に奇妙な音が届いた。しかもそれは化け物の気配に近づくほど大きくなっていく。
どこかで聞いたことがあるような不愉快な音だ。まるで虫の羽音のような……。
そう感じたのはどうやら間違いないらしく、近づくにつれ上方から聞こえてくることがわかってきた。
(右へ跳べっ!)
突如そう剣に叱咤され、遅疑なく反応した葵はそのまま勢いで転がりつつ跳ね起き、
さらに間髪をいれず剣を抜き放って戦闘態勢に移行する。
さっきまでいた辺りに視線を遣ると、そこには何かの液体が撒かれていた。
さらに視線を動かし怪物の姿を捉える。その姿はどうみても巨大な蚊のように見えた。
刺されたら全身が倍ぐらいに腫れ上がりそうである。妙な病気を持ってないといいのだが。
(いや、その前に血を吸い尽くされて干乾びるだろう定石で考えて)
剣のありがたくない予測はさておいて、厄介なのは相手が飛んでいることだ。
向こうがある程度近寄ってくれないと斬り付けることもできないからどうしても
守勢に立たされてしまう。
(仕方ないな、今回はお前の炎がどのくらい飛ばせるかを実践で測るいい機会だと思うことにしよう。
残念だが“今回は”血をあきらめることにする)
思いっきり未練たらたらの剣の発言に思わず葵は苦笑してしまったが、考えてみると
対抗する手段があることが判明したとはいえ依然として状況は厳しいのではなかろうか?
何かを飛ばす攻撃の際には流れ弾の存在は避けられない。
どのくらいかというとSLGでユニットを建物の上に配置すると回避率が上がったり、
職業軍人が誘導兵器を使っても誤爆が起きるくらい避けられないのである。
それはさておき、流れ弾により火災が発生したらしゃれにならない。
一方そんなことに斟酌する必要のない怪物のほうは気楽なもので、口吻からまたも液体を
葵に向かって撒き散らしてきた。
葵はとっさに怪物に向かって駆け出し間合いをつめる。さっきまで葵のいた場所に液体
が振りまかれるのを一顧だにせず、左手に意識を集中させた。
掌に小さな炎が生まれ、徐々に大きくなっていく。
真下からなら、射線を確保できるはず。そう考え炎の飛礫を投げつけようとする。
(上からくるぞ、気をつけろ!)
再び剣に叱咤され、あわてて横っ飛びにかわす。集中が乱れて炎が消えてしまった。
思ったよりも攻撃間隔が短い、炎の形成と維持に意識が向いた状態で
攻撃をよけ続けられるか不安になる。
もっとも、避け続けることができたところで向こうがあきらめてほかの標的に向かって
しまっては意味がない。
さっさと倒すのは無理でも、どうにか相手を惹きつけ続けなくては……。
そう思った葵だが、まったく手段が思いつかない。
何しろこれまで蚊は避けるものであったから蚊を自分にひきつける方法など
考えたこともなかったのだ。
虫なんだから飛んで火に入ってくれればいいものを……などと無茶なことを考えつつ、
葵は小さな火の玉を投げつける。早く作ることを最優先したそれは威力も射程も
心もとなかったが、だからこそ投げつける際の制約が小さかった。
だが火球はあっさりとかわされて虚空に消えてしまう。
葵はそれを見届ける暇もなく、蚊の反撃を後ろへ跳躍することでよけた。
(飛び回る相手ではやはり広範囲に攻撃しないと埒が明かないか……
さっき大きな川の近くを通ったが、そこの上に追い込めば延焼の危険が少しは減るのではないか?)
速戦即決を好む性質の剣が少々焦れたように言う。
葵はその案の採用に躊躇した。有体に言えば追い込むことと遠距離を広範囲で焼き払う
ことの双方が実行できるか自信がなかったのだ。
かといって代案もなく、従来通りの撃ち合いを続けるほかなかった。
が、これはいささか葵に不利だった。相手の攻撃をかわしながら延焼を警戒しつつ
反撃するのはかなり神経を使う作業であったし、相手が撒き散らす液体のしぶきをよけるには
動きを見切って最小限でというわけにもいかない。
そして精神的に消耗すればするほど早くけりをつけたいという焦りが生まれてくる。
撃ち合いを続けるうちに葵は無意識のうちに過剰に力をこめていた。
過剰な力を制御するのは消耗した集中力。当然のように暴走し、炎が弾けた。
(っ!)
思わずひるんだ隙を狙ったのか、それとも偶然か、直後に蚊が液体を吹き付けてきた。
とっさによけきれず、むき出しの二の腕に飛沫を浴びてしまう。
直後、耐え難い痒みに襲われた葵は堪らず近くの川へ走った。
こんな状態で火など起こせるはずもない。
橋から身を躍らせ川に飛び込むと、液体が洗い流されたか痒みが和らぐ。
人心地ついたと思った瞬間、追いかけてきた蚊がまたも液体を吐いた。
さすがに水に浸かった状態では飛びのくことができないのでとっさに潜ってやり過ごし、
潜ったまま橋脚のそばまで移動する。
水面から顔を出して周囲を確認すると、橋脚に背を預けるように立ち上がった。
自慢の黒髪はたっぷりと水を吸って重く、大きく開いた背中に張り付いて実に不快だった。
橋脚の陰に身を潜めつつ聞き耳を立てる。
羽音から察するにどうやら向こうはこちらを離れる気配はない様であった。
葵はほっと安堵の息を吐くと、呼吸を整え意識を集中させる。
足場は悪いが、延焼の危険のないここなら思い切り炎を放てる。
そう自分に言い聞かせた。
羽音が徐々に迫ってくる。葵は硬くなった唾を飲み込むと身構えた。
橋脚の陰から蚊が姿を現す。視界に入った蚊がかなり低い位置を飛んでいることを認識した
葵は、とっさに蚊の下の水面に全力で炎をたたきつけた。
爆発を思わせるほどの水柱が上がり、周囲が水しぶきに包まれる。
葵は左手で顔をかばいつつ、両足を踏ん張ってどうにか転倒を免れた。
飛沫がやや収まり、水柱に巻き込まれた蚊が水面でもがいているのを見て取る。
再び飛び立つ前に止めをささなくては。そう逸る心は炎を形成するのも面倒と思ったのだろうか、
葵は反射的に剣を投げつけていた。
無茶苦茶な回転をしつつ飛んだ剣は奇跡的に命中し、切り裂くというよりも叩き潰すように
蚊の息の根を止めた。
葵は周囲を探って怪物の気配がもう存在しないことを確認し、右手を突き出して手を開く。
剣が吸い込まれるようにその手に収まる……と思いきやそんなことはなかった。
代わりに、
(主を投げる従者がどこにいるというのだ。ゆっくり話し合う必要があるようだな……
さっさと家へ帰るぞ)
という苛立たしげな声が聞こえてきた。葵としては学校へ帰って授業の続きを受けたいのだが
とてもそう言い出せそうにない。
葵は無性に泣きたい気分になってきた。