人っ子一人いない真夜中の学校は薄気味悪いとよく言われる。
生徒たちで溢れ、騒々しい日中との落差がそんな感想を抱かせるのだろうか。
そんな深夜のとある学校に、もしも人がいたらプールのあたりが明るくなっている
ことに気が付くことだろう。そのまま観察を続けていれば光が時折消えて、
水音がするのを耳にするはずだ。そして幽霊が出た、と逃げ出すことをせずに
プールのそばまで近づいてみれば、一人の少女の姿を目にすることになるに違いない。
今、少女こと渡辺葵は左手を水に漬けて掻き回していた。右手には漆黒の長剣が
握られていて、黒い服に身を包んでいる。万全の戦闘態勢といったところだろうか。
人に見られたら不法侵入と銃刀法違反で通報間違い無しの姿であった。
さて、葵が真夜中にこんなところにいる理由は無論泳ぐためではない。
話は少々遡るが、先日蜘蛛男と遭遇した葵は窮地に陥ったものの、土壇場で発火能力に
目覚めたおかげで切り抜けることが出来た。その日は疲れ果ててすぐ眠ってしまったのだが、
よくよく考えてみるとこの能力は危険極まりない。何かに延焼したら大惨事になる
可能性もあったし、状況次第では自らをも焼いてしまう。
先日は剣の助力を得て火を消すことに成功したが、常に身につけていられるとは
限らないし、擬態状態で剣の能力が制限されている日常でも制御は大丈夫か不安でもあった。
結局自分を気遣う両親に胸を痛めつつもその日の学校は仮病でサボり、ゆっくり対策を
練る事にした。
とはいえ、原理がさっぱりわからない以上、発火能力の仕組みの究明より発火能力を
暴発させずに日常生活を送る方法のほうが差し迫った問題である。
原理がわからなくても家電製品を使って便利な生活を享受することに問題はないのだ。
だが、家電製品と違いマニュアルなどないのもまた事実。原理がわからない以上
ひたすら火をつけて消してを繰り返し、実地で覚えるしかないのかもしれない。
そう葵は考えた。そしてどこで練習するか考えた末に、学校のプールを思いついた。
床がコンクリートで延焼しにくい――無論高熱に曝されれば劣化するし、
跳び込み用の台等に可燃物である塗料が使われている――し、水が豊富だ。
幸いなことに葵の通う学校には水泳部があるので、藻が大量発生していることもない。
宿直室はなかったから多分見つかることもないだろう。なかなか良い考えに思えたのだ。
深夜になるのを待ち、家を抜け出すと学校に向かう。普段電車で通う距離を歩いていては
時間が足りなくなってしまうから、周囲に人がいないか探りつつ全力疾走だ。
そして警報装置の存在を警戒して、校舎の塀をこっそり乗り越えて侵入を果たし現在に至る。
左手を水につけているのは反復練習をしてるうちに手がひりひりしてきた為だ。
だが間違いなく成果はあった。と、葵は思っている。小さな火をつけたり消したりは
瞬時に出来るようになったし、手を水に浸ける間隔は少しずつ長くなっているようだ。
そろそろ剣の補助無しで挑戦してみようか? 少々気が早いようなきもするが、
補助無しで成功すれば日常生活における心配はないはず。
葵としては日常を送る上で問題ないという太鼓判が早く欲しかったのだ。
水に浸けていた左手を軽く振って水滴を飛ばしつつ、変身を解除する。
左手を前に突き出すようにして、先端に意識を集中する。
半袖のシャツを着てきたから余程のことがない限り、服に焦げ目が付くことはないはずだ。
点いた、成功だ! そう思ったのもつかの間のこと。手袋無しで直接火に曝される痛みは
葵の想像以上で、思わず飛び上がってしまった。さすがに叫び声を上げるようなことはしなかったが、
先はまだまだ長いようである。

ある日、葵は極めて珍しいことに睡眠の途中で目が覚めてしまった。夜間外出の後でこんなことになるのは
初めてのことである。
寝ぼけてぼんやりとかすむ視界は暗く、まだ払暁までずいぶんと時間がありそうだ。
最近は体を動かすより発火能力の制御訓練に時間を割いているので肉体の疲労は無かったが、その分
気疲れでもしているのか、頭の中に脳味噌の代わりにタールが入ってぐるぐる回っているかのよう
な気分である。大変気持ち悪い。
主観的に大変な努力をして時計へ視線を向けると、帰宅してからほとんど時間が経っていないではないか。
「……あと三時間…………」
超人的な仕事中毒振りで知られるどこぞの皇帝だってそのくらいは寝ていたはずで、まして精神面では
凡庸そのものの葵としては、いくらお肌の曲がり角に時間的余裕があっても睡眠時間はしっかり確保
しておきたいところである。
それにしてもあと三時間などと、なにを自分はフィクションで人に起こされたときに言いそうな台詞を
言っているのだろうか。起こしに来た人がいるわけでもないのに……。
ふとそんな考えが浮かんで、奇妙な可笑しさを感じた葵は口元を緩めつつ布団を被りなおした。
(いや、寝るんじゃない。起きろ)
いた――人じゃないけど――。
剣に呼びかけられてのろのろと布団から這い出す。それにしてもこんな夜更けになんの用があるのだろう?
頭の片隅にそんな思考をよぎらせつつ枕元においた剣を手に取った。
(まだ気がつかないか? ずいぶん寝ぼけているようだな……怪物が出たぞ)
その言葉が頭にしみこむまで時間がかかった。言われたことを理解すると同時にあわてて周囲を探る。
言われてみれば確かに怪物の存在を感じ取ることが出来た。
こうしては居られない。葵は着替えるのももどかしく、剣を鞘から抜き放った。
鞘から刀身が開放されると同時に、ナイフに擬態していた剣が漆黒の長剣へと変容する。
鞘が夜の帳の中でなお黒く映る禍々しい魔力の霧と化して少女を覆っていき、
身を守る服へと変わっていった。
全身に活力が漲り、頭を覆うぼんやりとした眠気の靄が拭い去られるかのように思考が鮮明になっていく。
調子を確かめるかのように手を握って開いてを繰り返し小さく頷くと、葵は外へと飛び出していった。
「あれ? おかしいな……」
怪物の姿が見えない。
確かにこの辺りに居るはずなのだ、気配もするし臭いもする。なのに何故居ないのだろう?
今の葵の視力は都市部の濁った空気の中でも日中に星が見えるという人間離れしたものだ。
それだけに他の感覚が強化されたとはいえ、視覚に頼る傾向はむしろ強まっていると言ってよい。
頼みとする視覚が存在するはずの怪物を捉えられない状況に葵は困惑を隠すことが出来なかった。
「ねえ、どう……っ!」
剣に声をかけようとした時、葵はふと違和感を感じて反射的に体を捻る。視界の中を何かが掠めた。
“何か”は、葵の傑出した視力を持ってしても識別するのはきわめて困難だった。
目を凝らしてみたが、どこにいるやら皆目検討が付かない。
隙を衝かれるのを覚悟でめくら滅法仕掛けるか、向こうが仕掛けるのを待つか。
葵は後者を選択し、心を落ち着かせようと呼吸を整える。それにしても後の先だの活人剣だのの境地とは
程遠い身に、予備動作の視認が不可能なこの状況ではほとんど運頼みである。

(来た……って、速っ?)
湿った音がかすかにした半瞬後に再び視界によぎった“何か”の襲撃をかわしつつ斬りつける。
だが、思った以上に素早い攻撃に姿勢を崩しそうになり、不十分な体勢で繰り出された反撃は
鋭さに欠け、“何か”に触れることもなく空を切った。
だが二度の攻防でわかったことがある。少なくとも“何か”は速いから見えないのではないことと、
弾丸のように小さくはないこと、そして攻撃時のみ僅かに姿が見えることだ。
遠くからの狙撃ではなさそうである。かといって物陰からの一撃離脱だけでは説明できない。
(あ、見えないのが相手の能力なのかも)
擬態なのか光学迷彩なのか元々透明なのかは知らないが、葵の持っている剣が擬態状態だと
大抵の人に見えないように、そんな能力を持った怪物が居てもおかしくない……かも知れない。
だがその能力も使いこなせないのでは意味がないのではなかろうか? 等と葵は考える余裕も出てきた。
“何か”は何故か風上に居るから臭いがこっちに漂ってきているのだ。
獲物が鼻の利く草食獣だったらすでに逃げられているだろう。どうやら頭はよろしくないらしい。
“何か”が横薙ぎの一撃を振るって来た。足を狙ったと思しき低めの一撃を葵は後方に跳躍してかわした。
見切りが甘くなるため幾分余裕を持って――無駄な動きを減らすという定石には反するが――
避けたため、無防備な着地を狙われることもない。筈だった。
着地のため身構えようとした葵の体が急に静止した。傍から見たら宙に浮かんでいるように見えただろう。
無論それは葵の意思による物ではなかった。“何か”に空中で絡め取られたのだ。
だが葵の思考はそこまで至らない。つま先から内腿までへばりついた“何か”の感触に
葵の頭は埋め尽くされていた。
葵の口から悲鳴が漏れる。そして次に葵が示した反応はいかなる絶叫よりも雄弁かつ激越に
彼女の恐慌を表していた。衝動的に発火能力を振るう。制御も何もあったものではなかった。
炎が急速に膨れ上がって少女の下半身を包み込む様はまるで人の形を模した松明のようだ。
“何か”は炎に炙られて後退し、葵は開放され地に降り立つ。皮膚が引き攣って痛みが走った。
“何か”の姿が一部露になる。加熱した生卵が固まってしまうように、火に曝されて火傷した部分は変質して
隠すことが出来なくなったようだ。その姿は不定形で葵は真っ先にスライムという単語を連想する。
その姿を目で追った葵にはようやくさっきのからくりが飲み込めた。
後退しているスライムもどきは葵の後ろ、風下にさがっていく。そして風上からは依然として“何か”
の臭いが漂ってきている。怪物は二匹、あるいは複数いて、風上に注意を奪われていた葵は
風下で待ち伏せしていたスライムもどきに気付かず奇襲を受けた、ということだろう。
風上から迫る相手を馬鹿にして油断した自分はそれ以上の馬鹿ということだろうか?
という考えが葵の脳裏にちらりと浮かんだが、今はそれどころではないと頭から追い出した。
敵が複数いることがわかった以上速やかに逃げるか各個撃破を図るべきであり、
姿を暴露しているスライムもどきはまさに各個撃破の狙い目という物だった。
“何か”からさらに離れるように距離をとりつつ、機を見てスライムもどきに接近する。
葵の踏み込みは火傷の痛みで常よりも精彩を欠いたが、それでも尚スライムもどきの
よく逃れ得る物ではなかった。
少女の口から鋭い呼気が漏れ、それと同時に斬撃が振り下ろされる。
葵の細い体からは想像もつかぬほどの力と勢いに満ちた一撃はただの一太刀で
スライムもどきを両断していた。体液が飛び散り、葵の体のそこかしこを汚していく。
不快な感触に気分が悪くなりつつも、それを押し殺して振り向いた。
仲間を助けようとしてか、それとも背を向けていたせいなのか“何か”が接近してきていた。
頭部を狙った一撃を姿勢を低くしてかわし、ついでに足元に貯まったスライムもどきの体液を手で掬い上げる。
腕を、振るう。遠心力で手から離れた液体が“何か”にかかった。
粘性を帯びた液体が街灯の光を反射し“何か”の存在を露呈させる。
葵は“何か”の抵抗をかいくぐり懐に飛び込むと渾身の力で剣を突き刺した。
柄を握る手すら傷口にめり込ませるほどの凄まじい刺突を受けた“何か”はすぐに動かなくなった。
強引に剣を引き抜くと周囲を探る。もう周囲に怪物の気配はないようだった。
ふうっ……と長々と安堵の息をつく。落ち着いてみると体がべたべたして不快に感じていることを
思い出した。それに足も冷やした方がいいかもしれない。
葵は近くに公園があったか考えつつ歩き出した。