その日の真夜中も特訓のため葵はこっそりと家を抜け出した。
最近読んだ護身術の本に従い道の真ん中を歩いて公園に向かおうとしていると、
前方から人影がこちらに向かってくることに気がついた。若い男性だが
見たところ警官ではないようなので、右側によりつつすれ違うことにした。
だが両者の距離が間近となったところで、あることに気がついた葵は足を止めそうになり、
慌てて再び歩き始める。そして交差点の角を曲がると身を潜めた。
あまりに微弱ですぐ側まで近寄らないと判らなかったのだが、怪物と同じ気配が
することに気がついたのだ。
理由を探るため葵は予定を変えてその男を追いかけることにした。といっても葵に
尾行の心得などあるはずもない。せいぜい物音を立てないようにするくらいである。
幸いなことに葵の鋭敏な感覚を持ってすれば見失う心配は無用であった。
男はとっくに閉店時間を過ぎた店の広い駐車場に入っていく。駐車した車もなく、視界を
さえぎる物は存在しなかった。このまま駐車場に入っては気付かれてしまうかもしれない。
その上、葵の記憶によればこの店の駐車場の出入り口は複数存在するので、出口に先回り
しようとしても別の出口から出たことに気がつかず取り逃がす恐れがある。
かといってこの男と後日遭遇する可能性は低いだろうから、尾行を断念することもためらわれた。
葵が判断に困りながら窺っていると、男は奥のほうには行かずに入り口からそれほど
離れていない地点で立ち止まり振り向いた。男の視線が一瞬葵と重なったように葵は思った。
気付かれた? 葵は驚きで心臓が跳ね上がったかのように感じ、思わず胸を押さえた。
落ち着こうと静かに深呼吸――後なぜか手のひらに人の字を書いて飲む動作をしたり――しつつ、
善後策を練ろうとする。
強襲を仕掛けるという案を真っ先に却下する。怪物の気配が僅かにするとはいえ、人間(?)に
問答無用で切りかかるようなことは葵には出来そうになかったし、実はこちらの勘違いで相手が
ただの一般人であった場合取り返しがつかない。
と、なるとこのまま息を潜めてやり過ごすか、それとも速やかに引き上げるべきだろう。
これからは相手も警戒するだろうから尻尾を出す可能性は低く、このまま引き上げるのが無難なのは間違いない。
だが、このまま手ぶらで帰ると何かあったときに手遅れにならないだろうか? そんな不安が葵の判断を
鈍らせる。そもそも何かがあったときに葵が対処できるとは限らないというのに。
葵の思案を止めたのは決心ではなく衝動であった。衝動の赴くままわけもわからず前方に身を投げ出す。
物陰から出て身を曝すことになるということなど考える余裕はなかった。
転がった勢いで身を起こし、振り向いた葵は衝動の原因を悟った。
先ほどまで自分のいた場所に駐車場にいたはずの男が立っている。まっすぐ自分に突進されていたら
対応できなかったかもしれない。
「お嬢ちゃん、こんな時間に出歩くなんて悪い子だなあ。お仕置きが必要だな」
そんな嘲るような呼びかけとともに男の姿が徐々に変貌していく。
先ほどの直接手だしせずに背後に回る行動といい、わざわざ眼前で変身することといい、男の行動は
己の力を誇示して葵の恐怖心を煽ることを目的としているかのようであった。
己の力に相当な自負を抱いているのだろうか。
人型の怪物の存在がありえるかもしれないとは思っていた――葵が持っている剣の存在がその傍証――。
だが実際に対峙し、喋るのを聞くと動揺を禁じえない。意思の疎通が出来そうな相手を傷つけていいものだろうか?
そんな葵の動揺を見て取った剣はこのままでは勝てる相手でも勝てないと判断して撤退を勧めることにした。
人間を傷つけることを葵が忌避してるのは初めからわかっていたことだ。
(葵、引き上げるぞ)
躊躇していた葵はその助け舟に飛びついた。無論、誰かが襲われていたりしたらそうはならなかっただろうが。
(う、うん)
男を見据えたまま後方に飛び退りつつ、葵は剣の擬態を解く。鞘が黒い霧状の魔力と化して葵を包みこみ、
着地したときにはすでに漆黒の長剣を携え、黒衣をまとう剣士の姿となっていた。

一方男の方もすでに変貌を遂げ人外の姿となっている。きわめて大雑把な表現をすれば蜘蛛男だ。
コガネグモめいた鮮やかな縞模様の体色で本来の四肢に加え背から虫の足のようなものが二対生えている。
「へえ、お仲間か」
向こうにとっても葵の変身は意外だったのだろうか、葵にとっては都合のいい事実ではある。
相手の敵意がなくなれば万々歳だし、そうでなかったとしても逃げ出す際に全力疾走するには
無防備な背中を見せることになってしまうからもう少し距離をとっておきたいところだ。
だがそんな思惑は続く一言で粉々に吹き飛んだ。
「お嬢ちゃんもあそこで力を貰ったのか?」
不覚にも足を止めてしまった。あそこってどこ? 力を貰うってどういうこと? 反射的に迸りそうになる言葉を
あわてて飲み込む。そんなことをしては「お仲間」ではないと暴露するようなものだ。
だが葵が目に見えて動揺するのを見て向こうは葵を「お仲間」ではないと思ったようだ。
一息に間合いを詰めると背中から生えた足の先端から細い糸を飛ばしてくる。ふわふわして切り払うのは難しそうだ。
それをかわして風上に回りこもうとする葵。だが、間髪をいれずに男の左手から太い糸が伸び鞭のように襲い掛かる。
男の手の動きによって微妙に軌道を変化する糸を葵は体勢を崩しつつも辛うじて避けた。
だが男にはまだ右手が残っていたのだ。右手から伸びた糸を体勢の崩れた葵は避けることが出来ず、とっさに
自分と糸の間に剣を割り込ませる。純白の糸が漆黒の刀身にへばりつき、引き寄せようとする男と唯一の武器を
奪われまいとする葵の間で綱引きの形となった。
力においては葵が勝った。じりじりと男が引きずられていく。しかし更なる力を全身に込めた葵の体が突如後ろに流れる。
力比べの不利を悟った男が糸を手から切り離したのだ。そう葵が悟ったときにはすでに男が新たに伸ばした糸が
絡み付いていた。
もがく暇もなく葵の体が宙に浮き、勢いよく地面に叩きつけられる。圧迫された肺から大量の空気が押し出され、
葵は喘ぐ様に口を開閉させた。男の攻撃がそれで止まるはずもなく、振り回された葵は今度は金属製の車止めに
叩きつけられた。衝撃で車止めが変形する。もちろん葵もただではすまなかった。
頭が灼かれるような激痛で声にならない絶叫を上げ、剣を取り落としてしまう。
武器を失った葵に出来ることは必死で頭をかばおうとすることだけだった。
何度振り回され、幾度地に叩きつけられただろうか。朦朧とした意識の中葵は浮遊感が消えたことに気付く。
男が手を止めたのだろうか。口の中を切ったのか、血の味がして気持ち悪い。
そんなことをぼんやりと考えているうちに視界がはっきりしてきた。
間近に近づいてきた男の姿を見て身を起こそうとする。体中に痛みがはしり、起き上がるだけなのに非常に億劫だった。
「っ!」
男にとってはその動作は非常に緩慢なものに映ったことだろう。葵が上半身を半ば起こしたところで無造作に
胸を踏みつけた。肋骨にひびが入っていたのか、それだけで葵はうめき声をあげて再び倒れこんでしまう。
それだけでは飽き足らないのか男は足を捻るように踏みにじる。葵は激痛にさいなまれたが叫び声を上げる
気力も尽き果てていた。
何かに助けを求めようとしてふと葵は以前に剣が勝手にかばんに入ってきたことを思い出した。
自力で移動できるのならひとりでに飛んで刺さったり出来ないだろうか? そこまで行かなくても
手元に引き寄せることが出来たらいま自分を踏みつけている足を突き刺して、その隙にひょっとしたら
逃げられるかもしれない。そう考えて葵は剣に呼びかけた。離れたところに落ちてはいるが剣の一部である
鞘を身に纏っているから意思の疎通は可能である。
だが無情なことに剣の返答は糸で厳重に束縛されているから今は無理というものであった。
相手の武器を使用不能にすることは向こうにしてみれば当然であろう。
一縷の望みを絶たれてしまった葵の中で弱気の虫が頭をもたげてきた。

(私、このまま死んじゃうのかな)
怪物相手とはいえ他者と戦い、傷つけ、殺すのだから本来自分も傷つき、殺されることを覚悟するべきなのだろう。
だが、葵にそんな覚悟はない。もともと初めは自分の意思と関わりなく戦いを強いられたからということもある。
しかしそもそも覚悟というものは誰にでもできるものなのだろうか? 
覚悟のある人間を美しく感じることがあるが、誰にでもできることをしている人間にそんな感覚を
覚えないのではないだろうか。
嫌だ、死にたくない、今のまま死ねない。痛切にそう思った。
葵は消極的な今の自分があまり好きではない。人付き合いは苦手だし、電車で人に席を譲らなかったこともある。
深刻なものではなかったとはいえいじめを看過したことすらあった。そんな自分は嫌だ。
自分を好きになりたい。ここで終わってしまったらなりたい自分になれない。
強い意思さえあれば変わることが出来ると言ってくれたのに!
萎んでいた葵の闘志が徐々に高まっていく。閉じていた目を開け、相手の僅かな隙をも見逃すまいと見据える。
そんな葵の反抗的な態度を男はむしろ楽しんでいるかのように声をかける。
「知ってるか? 蜘蛛は食事のとき獲物に消化液を注入し、溶かしてからすするんだぜ」
そういいつつ葵のそばに顔を寄せ、左右に牙を開くとそこから液体をたらす。雫は葵の耳を掠めて落ちた。
先ほどまでの葵であれば震え上がっていたことだろう。だが今の葵の精神を支配するのは灼熱の怒りだった。
怒りのせいか全身が燃え上がるように熱く感じるほどだ。
こんな相手を嬲り者にして遊ぶ下種野郎に好き勝手にされてもいいのか? いや、よくない!
両腕に力が戻り苛烈なまでの熱さを帯びる。硬く握り締めた両手が比喩ではなく本当に燃え上がった。
鉄より強靭と讃えられる蜘蛛の糸でも熱には弱いものだ。葵を拘束する糸が見る間に崩れ落ちていく。
葵は拳を突き上げた。
「まあ俺の場合は女を別の意味で蕩かして……うおっ?」
男は葵の急激な変化に対処が遅れた。さすがに拳に当たりはしなかったものの、思わず身をかわした隙に
葵に起き上がられてしまう。有利な体勢を失ってしまったのは明らかだった。
「ちっ、お楽しみは後にとっておくとするか」
「あ、待ちなさい!」
戦いの流れが変わったと思ったのだろうか。男は脱兎の如く逃げ出した。
この行動は勝負はまだ五分かむしろこれまでの痛手で自分が不利だと判断していた葵の意表をついた。
あわてて追いかけるが、男は店の屋上に糸を伸ばし一気に上まで登ってしまった。
そのまま糸を使って屋根伝いに移動しあっという間に離れていく。追撃は不可能だった。
男の姿が視界から消える。
葵の精神を包んでいた高揚が去り、気が緩んだためだろうか。にわかに炎を帯びた両手から苦痛の波が
押し寄せてきた。熱で温感が麻痺したのか、全身が寒気で震えるほどだ。
(熱っ。と、止まらない?)
戦いは終わったというのに炎は消えるどころか勢いと面積を増していく。このままでは長手袋に覆われていない
剥き出しの皮膚まで火に包まれてしまうのは明らかだった。もはや一刻の猶予もない。
(私を手にとれ! 早くしろ!)
剣に叱咤され葵は反射的に剣を覆っていた糸を焼き払う。剣は吸い込まれるように葵の手に収まった。
その途端炎の拡大が止まり、徐々に勢いを弱めていく。やがて炎は消え、葵は安堵の息を吐いた。
夜中に騒ぎを起こしてしまったので遅まきながらこの場を離れた。
家に帰る道すがら体のあちこちが痛み、顔をしかめる。考えるべきことはいろいろあるかもしれないが、
疲労と痛みでろくな考えが浮かびそうにない。今はただゆっくり体を休めたかった。