部活動に所属していない葵は補習や委員会が無い限り放課後はまっすぐ
帰宅することが多い。近頃は金欠気味なのでその傾向は拍車がかかっている。
今日は天気もよく、駅のホームに人影はまばらで電車の席に座ることが出来そう
だと思うと葵は少しうれしくなった。
電車はあとどのくらいで来るだろうか、そう思い駅の時計に眼を向けようと
したそのときである。
奇妙な感覚が少女を襲った。強いて言うなら帯電した下敷きに産毛を
引張られる感触と電源を切ったテレビのある部屋で聞こえる耳鳴りを
たして二で割ったようなものだろうか。
この事態に戸惑った葵は剣に助言を求めることにした。
独自に感覚を持ち葵の感覚を共有できる剣に照合してもらえば感覚の原因が
何なのかわかるかもしれないと思ったのだ。だが芳しい結果は得られなかった。
(私の探知範囲にそれらしいものは無いな、感覚の示す方向に行ってみろ)
そんなことをいわれても知識の無い人間が魚群探知機やレントゲン写真を
見るようなものだから正直困ってしまう。風の方向を探るときに指先を舐めて
唾をつけるといったようなコツがわかれば楽なのだが……。
そこまで考えて、ふと目を閉じたらよりこの感覚に集中できるのではないだろうかと
思い至った。鼻が詰まると味覚がおかしくなるように逆効果となる可能性もあったが
他に妙案も浮かばない以上試してみるほかないだろう。
むう、と目を硬く閉じ眉根を寄せつつ神経を集中させてみたがどうも漠然として
方向を知る為の取っ掛りがつかめない。
「む、む、む」
諦めきれずさらに集中しようと試みる。ところがそれは外部からの要因で中断を
余儀なくされた。
「大丈夫ですか、どこか悪いところでも?」
「……は?」
健康極まりないくらいで悪いところなど無いのに何を言っているのだろう?
そんなことを思った葵はいまさらながらに自分が頭を手で抑えて
顔を伏せていることに気がついた。集中していて気がつかなかったようである。
なるほど、駅のホームで誰かが突然前屈みで頭を押さえつつうんうん唸り始めたら
心配するかもしれない。
納得すると同時に見る見るうちに自分の顔が紅潮するのがわかった。
頭に血が上る音が聞こえないのが不思議なぐらいである。
「あっ、その、はい大丈夫です! えっと心配していただいて申し訳ありません」
いたたまれなくなった葵は何度も頭を下げつつ脱兎の如く逃げ出した。
葵は駅を飛び出し、人気の無い場所を探そうとして周りを見回したところで
先ほどの奇妙な感覚がどちらから来るかが判ることに気づく。
今後の為にも何でそうなったのか考えたほうがいいだろうか。
駅で声をかけられる前は確かわからなかったはずである。
そして声をかけられてからは緊張とパニックで逃げ出してここにいたるわけで。
こうしてみると心当たりが無いが強いて言うなら緊張したせいだろうか? 
生物の授業で緊張状態にあると交感神経が活発化するとか言うのを聴いた記憶が
あるから緊張すると鋭敏になる感覚があってもたぶんおかしく無い……はず。
仮説はできたが立証する為の実験を行う気にはなれなかったので葵は感覚の正体を
確認しようと走り出した。

どれ位経っただろうか、剣が歓喜の声を上げた。怪物を発見したのだ。
そして剣が怪物のいる方角として示したところは葵の感覚が示す方向と一致していた。
そのことを理解した瞬間葵の足が止まる。首を押さえつけられたかのように
息苦しく、飲み込んだ唾は硬かった。そして胃は鉛を呑んだかのように重く、
思わず手でそのあたりを押さえた。以前見た怪物に殺された人の顔が脳裏に浮かぶ。
また誰かが死んでいたらどうしよう。そう思うと恐ろしくてたまらない。
怖い。行きたくない。
なぜ自分が行かなくてはならないのだ。そもそも怪物が自分の周囲だけ発生するはずが
無いじゃないか。きっと公的機関か専門業者が駆除してるはず。素人の自分より
プロに任せた方がいいに決まってる。そんなことまで考えた。
無論怪物との戦いを忌避するのは剣との――無理やり結ばされた――契約違反である。
当然違約を怒った剣は耐え難い苦痛を持って戦いを強いるだろう。
だが、有得べからざることに剣は沈黙を保っていた。
葵は困惑する。なぜ、なぜ何もいってくれないの? ただ一言「戦え」そう命じてくれる
だけでも私は……。
そこまで考えて葵はぎょっとした。なぜ命じられるだけで戦える?
そもそも何故私は自分が殺されることより他人がすでに殺されていることを恐れるのか?
葵は気づいた。己の恐れていたもの、それは自分の心が傷つくことだと。
行きたくなかったのは犠牲者が――行かなかったら行かなかったで悩むだろうが――
自分の対応の拙さのせいで死んでしまったと思いたくないから。
剣に言われれば戦えるのは自分の心の中で剣に責任を肩代わりさせるから。
今怪物に襲われている人がいるかもしれないのに自分はしばらく悩む程度の
ことを恐れて逃げようとしている。最低だ、私は。知らず涙が溢れだした。
自分自身がたまらなく厭わしくて消えてしまいたかった。
(自分が嫌なら、変われば良いではないか)
「え?」
普段の物騒な発言とはまるで異なる物言いに戸惑う葵をよそに剣は言葉を続ける。
(お前は以前はなかった怪物を探知する感覚に目覚めた。それはおそらく
先の戦いでもっと早く怪物を見つければ犠牲者を救えたのではという後悔のためだ。
強い意志があればお前は変わることが出来る)
「本当に?」
(ああ自分を信じろ)
いささか都合のよすぎる言葉かもしれない。だがそれでも葵は信じた。
腕で涙をぬぐうとナイフ状に擬態した剣を鞘から抜き放った。
どす黒く禍々しい霧状の魔力が少女の肢体を這うように包み込む。
霧状の魔力が晴れたときナイフの形をとっていた剣は磨き上げられた黒曜石のような
刀身の長剣に、少女の衣服は漆黒の装束となっていた。
決意も新たに走り出す葵。その手に握られた剣にもしも表情があったなら
うっすらと笑みを浮かべていたかもしれない。
実際のところ葵が怪物と戦い得る異能を持つことなど誰も知らないのだから
戦いから逃げても咎めるのは剣だけだ。
なのに彼女は罪悪感を覚えた。自分を脅迫する相手に罪悪感を覚える者などいるはずもない。
つまり彼女の中で怪物と戦うことは剣に強いられて嫌々やっていることではなく、
剣に強いられなくてもやらなくてはいけないことだと考えられているのだ。
剣にとっても自分を振るう人間に怪物と戦う理由があったほうが都合がいい。
苦痛という鞭だけでは死への恐怖が苦痛への恐怖を上回った時点で戦いに
駆り立てることが不可能になってしまうからだ。そして逃げたら殺すという
類の脅しは葵の代わりがいない現状では出来の悪いはったりでしかない。
……無論そんな剣の思考は葵に伝わることはなかった。

さて、剣がどうしたら葵が自分から望んで戦いに赴くようになるかを思案する間にも
葵の足は動いていたのでついに怪物を視認するに至った。
「これは……ナマズ?」
その外見はナマズにひれの代わりに四肢を生やしたようなもので、いささかこっけいと
取れなくも無いものであったが、その巨体は粘液に覆われた表皮とあいまって
嫌悪感をそそった。
血臭はしない、もちろんそれのみを持って犠牲者の有無を即断することは出来ないが、
このことが葵の精神に僅かなりとも余裕をもたらしたのは確かであった。
外見から判断すると噛み付いたり尻尾で叩いたりしてくるのだろう。
どちらが与し易いだろうかと思いつつ徐々に接近する葵の視界に細長いものが閃く。
とっさに飛びのいた葵が立っていた地点にぶつかり火花が散った。
怪物が髭を伸ばしてなぎ払ってきたのだ。火花が出たところを見ると
ナマズみたいな外見――足があるからサンショウウオの可能性もあるが――だけに
高圧電流でも流れているのだろうか。
どうにかしてあの髭をかいくぐって剣の間合いに持ち込まなくては勝負にならない。
(私の刀身と今のお前の衣服には魔力による絶縁処理が施されているから髭を切り払っても
感電する心配はない)
という剣の言葉をうけて葵は目を輝かせながら
(え、それじゃあ今の衣服で全身を覆うことってできるの?)
と全身を覆って安全に接近できるか尋ねてみたのだが、
(面積あたりの魔力密度が低下するから防御力は著しく低下する。推奨できない)
とすげなく断られてしまった。葵の趣味からすると今の服装が露出が多いので
布地を増やして欲しいのだがそんな理由があるのではそちらの要望も
期待は出来そうに無い。
辺りを見回したがそれなりの大きさのビニールなど盾に出来そうなものは見つからない。
なおも探すと近くにガラス瓶が落ちていたので何かの役に立つかもと拾い上げた。
今のところ周囲に人影は無いが、誰かが通りかかって巻き込まれたらと思うと
気が逸ってじっくり作戦を練ることが出来ない。
ええい、ままよといわんばかりにガラス瓶を投げつけすぐさま走り出す。
瓶は髭で叩き落されたが、僅かな時間の余裕が生まれる。
あわてたように振るわれる髭を姿勢を低くしてくぐりぬけ、噛みつきを警戒して
側頭部に回り込むと剣を振り上げ……振り下ろせなかった。
完全に無防備と思われていた怪物の首から何かが噴き出す。葵はとっさにかわしきれずに
浴びてしまった。その瞬間強烈な刺激が襲い掛かり、強化されたはずの葵の粘膜は
即時降伏し、涙と咳が止まらなくなる。かなりの劇物のようだ。

これでは攻撃どころではなく、怪物の反撃を警戒して必死で距離をとる。
直後に振るわれた怪物の尾による風圧が葵の髪をなびかせた。
さらに間髪をいれず怪物の髭が葵に襲い掛かった。剣が警告の声を上げるが
視界の利かない葵にそれを避けるすべはなく、首筋に髭が絡みつく。
「うあぁぁぁ!」
全身に強烈な電流を流され悲鳴をあげる葵。手足が言うことを聞かず手は
固く握り締めたはずの剣を取り落とし、足は己が体重を支えることも出来ず倒れ伏す。
なおも流れる電流に全身が波打つように痙攣する。
その際に耳が地面に押付けられたのは偶然で、その一瞬で聴覚が近づいてくる誰かの
足音を拾ったのもまた偶然だった。二つの偶然の重なりは奇跡だったかもしれない。
己と他者の死への恐怖が相乗効果で高まり動かぬ筋肉を叱咤する。
すでに目に浴びた毒は涙で洗い流されていた。
剣を拾い上げつつ一閃し、髭を切り落とす。そして電流からの開放に満足せずに
怪物に突進する。
一方の怪物もまったくひるむことなく小癪な獲物に外見からは想像できぬ瞬発力で
襲い掛かる。
だが、過剰なまでのアドレナリンで瞳孔が散大した葵の目はそれを完全に捉えていた。
跳ね上がった葵の右足が怪物の下顎を蹴り上げ、怪物の無防備な喉元を露にする。
次の瞬間葵の剣が怪物の首を深々と貫き、どうと倒れ伏した怪物はやがて動かなくなった。
怪物が絶命したのを確認し、葵は息をつきしゃがみこんだ。
どうも首周りに違和感を感じてなんと無しに手をやり、あわてて引っ込める。
どうも酷い火ぶくれになっていたようだ。どうやって周囲の人にごまかしたものだろう。
頭を悩ませつつも怪物に突き立ったままの剣を引き抜いた。
柄頭まで血を浴びて心地よさそうにしている。
葵はヒーロー願望があって今の自分から変わりたいと思っているが、
こんな血に飢えた武器の持ち主としてふさわしい存在になるよりは今のままのほうが
いいかなとも思う。
足音がいよいよ間近に迫ってきたようだ。普通に考えて路地で剣を持った
返り血まみれの人間に遭遇するのは恐怖体験以外の何物でもないだろうから
身を隠さなくてはいけない。葵は急いでその場を離れた。