渡辺葵は娯楽の対象としてはアクション系の漫画や小説を好む。
基本的に長いものには巻かれろで内向的な彼女は、無謀といっていい苦難に
挑戦し努力と友情と強運によって乗り越える主人公たちに自分にないものを
感じ、憧憬の念を抱くのである。
とはいえ憧れるのは主人公の持つ強さであって波乱万丈の運命ではない。
以前から漠然と思っていたが今やそれは確信となっている。
話は一週間前に彼女が剣に屈服した直後に遡る。このとき
初めて葵は剣を振るえるように肉体を弄られた事が自分の五感が
著しく発達した原因であり、純粋な人間の肉体とはいえなくなったことを知った。
自分が人間ではない。誰であっても平静ではいられないこの状況。
改造を受けてであれ出生の秘密であれ、この場合ヒーローは苦悩しつつも友人や
ヒロインに励まされて自分が肉体はともかく心においては変わりが
ないことに気がついて立ちなおり、精神的に成長する場面であろう。
葵の場合はいささか異なる。自分を人間でなくしたことをいつまでも不満に
思っていると、剣が癇癪を起こして耐え難い苦痛を与えるので
必死に考えないようにしているのである。世間ではこれを成長の証ではなく、
調教の成果というのではあるまいか?
さて、葵は剣を使って化け物を切り刻むことを求められている。
だが彼女は武道の経験も無ければスポーツも得意ではないインドア派で,
残念なことに剣は使用者の身体能力を飛躍的に強化する機能はあっても
達人の技能を与えることは出来ない。
そこで二人(一人と一振り?)はとにかく武道や格闘技の映像を見てひたすら
まねることから始めることにした。とはいえ校則でバイト禁止な学生の
悲しさというやつで資金捻出にさまざまな代償を必要としたのであるが……。

草木も眠る丑三つ時、いまや半ば有名無実と化した言葉ではあるが
人間が基本的に昼に行動する動物である以上大半の人間が眠る時間である。
葵は耳を澄ませ両親が眠っていることを確認すると、布団から抜け出した。
パジャマから着替えると外出の準備を済ませ、窓から外へ抜け出す。
こんな夜更けに外で何をするのかというと、少年漫画の王道たる特訓である。
人間離れした身体能力を思う存分発揮するには人目を避ける必要があった。
余談であるが、普段体を動かさない人間が体を動かす場合は脳の命令で動いた
手足が「今これだけ動いた、目的の位置まであとこれくらいある」という
フィードバックを行い、それを受けた脳が手足に命令を下すということを
繰り返す。運動に慣れていくに従って繰り返しの回数が減って、
最終的には脳が命じた動きを一発で手足が行うようになるのだ。
閑話休題。屋根から降り立つ――残念ながら少女の未熟な体術では音も無くとは
いかない――と夜目の利く葵は危なげない足取りで近くの公園へと向かった。
公園についた葵は誰もいないことを確認すると入念な準備運動を行う。
走る、跳ぶ、見よう見まねで武術(主に剣道や剣術)の型をやってみる。
現金なもので身体能力の急上昇してから、それまでそれほど好きでもなかった
体を動かすことが楽しく感じられるようになった。
悪意のある見方をすれば力に酔っているのであろう。だが、生きる為とはいえ
人の身を捨て、それを不満に思うことも許されぬのならせめて
楽しまねば損ではないかと考えても不思議は無いだろう。


心地のよい汗をかいて一息つくと水飲み場で顔を洗う。
そろそろ帰ろうかと少女が考えたときのことであった。
(おい、化け物の気配がするぞ)
実にうれしそうな声が脳裏に響いた。
葵は虚を衝かれたような表情になった。生まれて初めて化け物にあったのが
つい先日のことだったので、本当に化け物と戦う機会などそうそうない
ものだと頭から思い込んでいたのだ。
しかし彼女に拒否権は存在しない。彼が自分の手駒を勝てない
相手にぶつけるようなことをしないと信じるほかないのだ。
葵は声の命ずるまま悍馬のごとき勢いで走り出した。
走り続けること暫し、葵の嗅覚が血臭が漂ってきたことを知らせてくる。
(近いぞ、私を抜け)
命じられるまま剣を引き抜く。
同時に擬態が解かれ、磨き抜かれた黒耀石のような刀身が姿をあらわす。
そしてどす黒い霧状に変化した鞘が少女の肢体を這い回り、
身を守るコスチュームに変化する。
やや露出度の高い黒一色の装束は少女の色白の肌に意外と似合っていた。
悪の女幹部に見えないのは衣装に髑髏がモチーフのアクセサリーが無いのと、
少女の容貌に驕慢さが欠けているからという二つの理由であろう。
今度は決め台詞でも考えてみようか等と不吉なことをのたまう声を必死で
無視し、葵は血の臭いの漂ってくる方向へ疾走した。

そして葵は化け物と遭遇した。その姿は熊のように大きな犬で、その口には
人がくわえられている。骨を砕かれたのかその首はありえない方向に
曲がっており、人の死体を見たことのない葵は思わず口元を押さえた。
少女に気がついたのだろうか、怪物はくわえていた人を放した。
哀れな犠牲者はは路面に叩きつけられてもぴくりとも動かない。
怪物が弾丸のような勢いで飛び掛る。葵は剣の叱咤を受け
あわてて身をかわした。
怪物はそのままの勢いで街灯にぶつかり、あっさりとへし折る。
少女は慄然としながらも続く二撃目をかろうじてよけた。
怪物の猛攻に対して防戦一方の葵だったが、必死で避けるうちに徐々に
怪物の動きに慣れてきた。正面から突進する怪物をかわしつつ、
反撃に転じて斬りつける。その一撃は怪物がとっさに体を捻ったので
急所にこそ当たらなかったが、怪物の足が一本血飛沫を散らせながら
切り落とされる。これでもう、さっきまでのような動きは出来まい。
そうほっとした少女の気の緩んだ瞬間を見計らったかのように、怪物が
少女の喉めがけ飛び掛る。不意を討たれた少女は避けられず、とっさに
左腕で首を庇った。

「ぐっ」
激しい衝撃を受けよろめく体を葵は必死で堪える。仕留め損なった事を悟った
怪物は腕に噛み付いたまま、凄まじい力で少女を引きずり倒そうとした。
そうなったら最後だ。引きずられぬよう必死で抵抗する。
だが、怪物の顎は手袋越しに少女の腕の骨がみしみし音を立てるほどの
力を加えてくる。このままでは苦痛で力が入らなくなり、怪物に
力比べの軍配が上がるだろう。
「こっ、のぉ!」
だから葵は左腕に渾身の力をこめ怪物を引き寄せると同時に、
右手に握った剣を振り下ろした。
怪物の首の付根に切り込んだ刃は易々と肉を切り裂き骨を砕いた。
葵の左腕を締め付ける力が急激に弱くなる。それでも放そうとしない執念は
まさに怪物というべきだろう。少女はさらに刃を奥へ奥へとねじりこむ。
怪物は最後まで腕を放さなかった。

動かなくなった怪物を振りほどくと、少女はへたり込んだ。
両手をついてぜえぜえと荒い息を吐くが、左手は感覚がほとんど無い。
返り血を浴びた肌からは汗が滝のように流れ、紅い雫がたれる。
危ないところだった。怪物が猫科の猛獣のように爪を使いこなしたり、
犬の本領である群れでの狩を行っていれば勝敗は明らかだったろう。
少女は疲れた体に鞭打って立ち上がると、怪物に刺さったままの
剣を引き抜いた。刀身についた血潮を怪物の毛で簡単に拭う。
血を大量に浴びたせいか刀身は一層妖しく輝いて憎たらしいほどだった。
そして、ようやく犠牲者のことを思い出した。
あわてて駆けつけようとしたが、足元がふらついて思うに任せない。
ようやくそばにたどり着いたものの、それはすでに手遅れであるという
確信を深めただけだった。
やっぱり、自分はヒーローには成れない。唐突にそんな考えが浮かんだ。
日常を捨て、怪物退治に全てをささげることなんて出来ない。鋭敏な五感
をもってしても怪物がどこから現れるのかなんて判らない。
風のように早く走れたって、結局間に合わなかったではないか。
そう、思った。
犠牲者の顔を眺める。思いもよらぬ不運で平穏な日常を断ち切られた
若い男性の顔。恐怖でゆがんだ無念そうな表情は今の少女には
自分を恨んでいるかのように見えた。
「ごめ……ん……な……さい……」
うつむき、肩を震わせながらも、かすれた声でどうにかそれだけの言葉を搾り出す。
零れ落ちた水滴は汗か涙か少女にもわからなかった。