酷い顔、というのが鏡に移った自分の顔を見た渡辺葵の第一印象だった。
シャワーを浴びた後、眼が覚めたら全ては夢でしたという結果となることに
一縷の望みを賭けすぐに寝たのだが、そんなおいしい話はあるはずも無い。
おまけにいつもより早く寝たせいで夜中に眼がさえて眠れなくなってしまった。
おかげで眼は充血しているし、何度も寝返りを打ったのかひそかな自慢の
長い黒髪は酷い寝癖がついている。
手早く洗顔を済ませ髪を梳く。それでも直らない頑固な寝癖にため息をつくと
どうにか寝癖をごまかせそうな髪型にしておいた。
制服に着替えると二階にある自室からキッチンに向かう。
香ばしいにおいが食欲を刺激してくる。それも道理で思えば昨日は晩御飯を
食べていなかった。
「おはようございます」
「ん、おはよう」
父が視線を新聞からちらりとこちらへ向ける。食事はすでに済ませたようだ。
「おはよう、昨日は晩御飯食べに来なかったわね。何かあった?」
昨日おきたことをありのまま話す勇気はなかったし、自分の身に
何がおきているのか自分でもわからなかったのでごまかすことにした。
「あ、ううん別に、食欲が無かっただけ」
さして独創性のない言葉だったが、こういうことに独創性は必要ないだろう。
「そう、何かあったらすぐ相談するのよ」
少女の胸が僅かに痛んだが、それを押さえ込むと今日の朝食のキャベツと
モヤシの炒め物と目玉焼きに眼を向ける。
いただきますもそこそこに目玉焼きの白身、次いでご飯をほおばる。
味覚が変になっていないことにひそかに安堵して、視線を上に向けると
そろそろ出勤しようと父が新聞をたたむところだった。
(そういえば昨日のアレは新聞に載ってるのかな?)
無性に気になって、少女は母にはしたないと注意されるのもかまわずに
あわただしく朝食を終えると新聞を手に取った。
(変ね? 載っていないみたい)
少なくとも熊が人里に出たとか、凶暴な亀が公園の池で見つかったとか
それくらいの扱いにはなると思うのだが。
沈思黙考する葵であったが、
「そろそろ出ないと電車に遅れるわよ」
「あ、ごめん。いってきます」
母に言われてあわてて出発するのであった。

教室で通学かばんを空けた葵はどうにか驚きの叫びを上げるのをこらえた。
例のナイフが入れた覚えもないのに入っていたからだ。
それにしても鞘から抜くと頭に声が響くし、勝手に追いかけてくるし
これは世間で言う呪われた品物ではないだろうか?
そこへ更なる追撃となる言葉を入室してきた担任教師が言った。
「えーこれより持ち物検査を行います」
思わず声を上げてしまったが、今度は他の生徒も不平の声を上げていたので
それほど目立つことは無かった。とはいえ葵はそれどころではない、
今からでは隠すことも出来ないではないか!
パニックになった葵の脳内ではすでに人気リポーターの声で
学校では問題の生徒について「目立たない普通の生徒だった。
こんなことをするなんて信じられない」とコメントしており……などと
気の早すぎる報道が行われていた。
(父さん、母さん、不孝な娘をお許しください)
妄想にふける葵の耳に、男子の検査が終わったので女子に並ぶよう告げる
教師の声がかろうじて届いた。意を決して列に並ぶ葵の鼓動は早鐘のようで、
少女の順番が近づくにつれ破裂するのではと思うほど早くなった。
ついに葵の名が呼ばれた。
「ひゃ、ひゃい」
くすくす笑う周囲の声も耳に入らず、葵はへたくそな操り人形のような
ギクシャクした動きで教師にかばんを手渡した。その眼は緊張で硬く
閉じている。葵にとって永遠といっていい長さの時間が過ぎる。
「はい鞄は合格。制服のポケットを見せてください」
という教師の声は葵には信じられなかった。思わずよろめいて教卓に
手を突こうとしたが失敗し、派手に転倒してしまう。
教室が爆笑に包まれるなかでのポケットの検査は何事も無く終わった。
教師は怪しすぎる少女の挙動を見て入念な検査を行ったにもかかわらず、
何も見つからなかったので首をかしげていた。

そうだ、お寺で供養してもらおう。そう葵が思い立ったのは下校の
途中寺の前を通りかかったの事であった。
そう思って境内へ入ったのはいいものの、このお寺そういうことを
やってるのだろうか、とかお寺のどこでどう頼んだらいいのだろうか、
などと考えるとどうにも二の足を踏んでしまう。
いつもそうだ、自分はいつも枝葉末節を気にして行動に踏み出せない。
考えるのはやめよう、要はお坊さんに問題の品を差し出して
供養してくださいといえばいいのだ。深呼吸をすると鞄を開け
呪われてるとしか思えないナイフを握り締めた。

葵は勘違いをしていた。自分の脳裏に声が響くのは
鞘から抜かれているときだけだと。鞘に入ったまま勝手に鞄の中に
入ってきたにもかかわらず、鞘に入っていれば安全と思い込んでいたのだ。
ナイフに触れた瞬間少女の体が硬直する。そのまま受身も取らず前のめりに
倒れこんだ。全身が小刻みに痙攣し、大きく見開かれた眼から涙が、
そして口からはよだれが零れ落ちた。
全身に走る痛みで目の前が白く染まる。助けを求めようとしたが
首が万力で締め上げたように苦しく、意味を成さぬ音が
口から僅かに漏れ出したに過ぎなかった。
頭の中では無数の破鐘のような声が少女を責めさいなんだ。
なぜ捨てる、昨日助けてやったのに、恩知らず等等…。
声も出せず心の中で必死に許しを請う少女に頭に響く声はこう答えた。
奴隷となって私を振るい、血を吸わせ、肉を切らせろ。
少女はそれを拒絶した。なぜそうしたのか、他人を守るために勇気を
振り絞ったのか、己のために人を傷つける勇気がないためか、
少女自身にもわからない。
だが、声は要求を蹴られても怒り狂うことはなかった。
それなら人ならざる怪物の肉を切り裂き、血を啜らせろ
それで我慢してやろう。本当は人間の血肉にまったく興味がないことを
おくびにも出さず、そうもったいぶって告げる。
声の甘言を受け、少女の張り詰めた心の糸が音を立てて切れた。