待ち伏せは多くの肉食動物のとる狩りの方法である。
彼もまた長い間身を潜めていた。もっともその標的は捕食対象ではなく寄生
する相手であったが……。

そぼ降る雨の中憂鬱な表情で道を行く少女。絵になる(?)光景ではあるが
少女が落ち込んでいる理由は甘酸っぱい青春ではなく、電車で席を譲ろう
として席をたったはいいが、声をかけるのをためらっているうちに第三者に
座られてしまったためという平凡な理由である。
うつむいて歩く少女、渡辺葵の視界に奇妙なものが映る。拳銃のホルスターの
ような形状の鞘に納まったナイフだ。彼女の脳裏に奇妙な思考が浮ぶ。
(このままじゃかわいそう)
そう思った葵はナイフを拾い上げ、自宅に持ち帰った。
濡れたものを直接机の上に置かずに済むように新聞紙をひろげ、まずタオルで
鞘についた水滴をふき取ると鞘の中に溜まった水分を取るためナイフを
鞘から抜こうとした。
「あれ?」
どんなに引張っても抜けそうにないナイフに首をかしげると彼女は諦めて
父親が革靴を磨くのに使うクリームを探しに玄関へ向かった。

翌日、学校から帰った葵は拾ったナイフを交番にでも届けようと
出かけることにした。とはいえ交番にナイフを拾ったと届け出るのは
なんとなく気恥ずかしかったし、奇妙なことに彼女は刃物を愛好する性質では
ないにもかかわらずこの拾ったナイフに愛着を感じており、出来れば自分の
ものにしたいと思っていた。そのためか自転車を使わず時間のかかる徒歩を
無意識のうちに選択し、少しでもナイフを手放すのを遅らせようとしていた
のだった。
ナイフに対する執着と持ち主が探しているかもしれないという良心の葛藤は
耳をつんざくような悲鳴により唐突に断ち切られた。
反射的に悲鳴の聞こえた方角に眼を向けるとそこには化け物がいた。
象のような巨体とナマコやアメフラシを彷彿とさせる外見、少なくとも
彼女の知識にそのような存在は無かった。あまりに非現実な光景に
(そもそもどこからこんな街中に湧いたのだろうか)しばし呆然としていたが
蜘蛛の子を散らして逃げ惑う人々が何人かこちらに向かってくるのを見て
反射的に走り出した。
今日はどうやら厄日らしく、化け物はちりじりばらばらに逃げ惑う人々の
中から葵のいる集団に狙いをつけたようである。意外にその動きは早く
――人類の移動速度は哺乳類としては遅い方ではあるとはいえ――
振り切ることが出来ない。そんな中葵の隣を走っていた主婦と思しき
女性が転倒してしまう。助けるか、見捨てるか、葵は戸惑い思わず足を
止めてしまった。その時間だけで怪物には十分であり、逃げ遅れた獲物に
追いつくと口を開き肉色の何かを吐き出す。そして葵の視界は閉ざされた。
「だして!だしてよ」
化け物の吐き出した肉色の何かに閉じ込められてしまった少女と女性は
必死でそれを叩く。だが弾力に富んだそれはびくともせず疲れて手を休めた
少女は手に違和感を感じた。叩いたことによる痛みとはまた違う痛みを感じるのだ。
そしてあたりに漂う嫌なにおい、まるで吐瀉物のような……。
(ひょっとして消化液? 溶かされて、食べられる?)
「ひっ、嫌、そんなのいやぁぁぁぁぁぁぁっ!」
半狂乱になって肉色の壁を叩き、体当たりし、蹴飛ばすが効果は無くとうとう
へたりこんでしまう。ふと葵はこの期に及んで後生大事に持っていたナイフに
気がついた。死にたくない、その思いに突き動かされ必死に抜こうとする。

彼は困惑していた。どうにも最近ありえないことが多すぎる。
擬態した彼を“見る”ことが出来る人間に遭うことも珍しいのに、
この人間はまじりっけなしの純正な人間でありながら奇妙に波長が合うのだ。
だが、このある意味不世出といってよい不思議な才能を持つ人間はいまや
死に瀕しているといってよかった。
(私は消化されることはないがこのまま排泄物塗れになるのも業腹だな)
決断すれば行動に移るのは素早い。彼は魔によって鍛えられ魔によって
振るわれる剣であり、拙速を尊ぶ性質だった。
刀身が鞘から抜き放たれると同時に擬態を解く。ここが光の差し込まぬ
暗闇でなかったら磨き抜かれた黒耀石のような刀身が見えただろう。
鞘はどす黒い瘴気へと変わり人間の体を這い回るように覆いながら侵食し
自分を振るうにふさわしい存在へと変質させていく。これは彼に備わっていた
身体強化能力の応用であった。
「きゃあ! いやあっ、なに、なんなの?」
人間が当惑の声を上げていたが彼には興味のないことだ。ただこんな珍しい
人間がいなくなるのは残念なことであったが……。
自分をどうにか使える程度の侵食は済んだようだ。正直成功するとは思って
いなかったのだが、この人間との出会いはまさに奇貨というべきか
それともうどんげの花というべきだろうか。
ともあれ彼は久方ぶりに血をすする機会を得たのだった。

「あ、あうう……」
葵はあいている手で頭を抱え呻いた。その手は家を出るときにはつけていなかった
手袋のようなもので覆われていることを触覚が伝えてきている。
何がなんだかわからない。体を何かが這い回るような感覚がなくなったと思ったら
代わりに周囲に漂うにおいがなんだか変だ、複雑になったというかなんと言うか……。
それより何より、頭の中に意思とでも言うものが流れ込んでくる上にその内容が
切り裂けだの血を吸わせろだのとかく物騒なのだ。
(私、おかしくなっちゃった?)
これではまるで精神を病んだ殺人鬼ではないか! 自分は死への恐怖に
狂ってしまったのだろうか?
そう懊悩する彼女の嗅覚が自分以外の女性の体臭―なぜかわかるようになった―
に反応した。それが彼女のなけなしの勇気を刺激する。
彼女を救えるのなら、救いたい。
ナイフ――にしては重いし、重心の位置が変だった――を振り上げ斬り付ける。
その斬撃はでたらめだったにもかかわらず、まるで研ぎたての包丁で
豆腐を切るかのようにやすやすと脱出を阻む壁を切り裂いた。


そして脳内に響く歓喜の声。
葵はとりあえずそれを無視し、女性とともに外界へ生還を果たした。
排ガスの味がするとはいえ正直外の空気がこんなにおいしいとは思わなかった。
そして彩を増したかに見える景色は比喩や錯覚ではなく認識できる色が増えたかのよう。
と葵は己の格好に気がついた。
「な、なにこれ?」
夜空を切り取ったかのような衣服と同系の色の長手袋と靴。しかも服は肩が出ているし
背中が外気に触れている感覚があるから背も大きく開いているようだ。
少なくとも出かけたときの格好ではない、その上どう見ても銃刀法違反な
物を持っている。
少女は混乱して女性がとっくに逃げ出していることにも怪物が唯一残った獲物を
逃すまいと近寄ってきたことにも気がつかない。
皮肉なことに取り乱す少女を正気(?)に戻したのは物騒極まりない頭に響く声だった。
(あいつの血をもっと私に吸わせろ)
そうだ化け物を倒して、とっとと逃げよう。
普段はまるで考えない無鉄砲な思考をすると化け物に向き直る。
こちらに向かってくる化け物は先ほどに比べると緩慢な動きにみえる。
体は鴻毛の如く軽く、たやすく側面に回りこめた。思い切り剣を叩きつける。
それだけで化け物は悲鳴を上げ崩れ落ちるように倒れこむ。
そして少女は声が命じるまま化け物が動かなくなるまで夢中で剣を突き刺し続けた。
満足したのか頭に声が響かなくなる。葵は一息つくと足早に立ち去ろうとして
路地に入ったところで気づく。この物騒な剣はどうしようか?
と、剣と衣服がもやに包まれナイフと鞘に戻り、そして少女は元の衣服を
身に纏っている。便利なものだなあとどこかがずれた感心をしつつ家路につき、
無事に帰宅すると早速シャワーを浴びることにした。だが葵は頭と体を洗い
高揚が収まるうちに重大な事実に気がついた。ナイフが元に戻っても自分の五感は
元に戻っていない! 少女は恐怖に駆られ思わず自分の体を抱きしめた。