光魔法族の城の地下。光が差し込むことのない薄暗い部屋。血の臭いが鼻にまとわりつくその場所で、向かい合う二人と三人の少女達は凍りついたように動かなかった。それは酷い有様のモニカの身体を目にしたせいか、それとも得体の知れない少女の存在のせいか。
「来て、くれたんだ……」
やがてモニカが小さな声でつぶやいた。苦しみに歪んでいたその顔にほんの少しだけ安堵の色が浮かぶ。その言葉が止まっていた時間を動かした。カナタがモニカのそばに歩み寄り膝をつく。
「モニカちゃん…こんな酷い目に……」
瞳から大粒の涙をボロボロとこぼしながら、カナタはモニカの傷だらけの肌に手を寄せた。手のひらから青白い光が放たれる。それはやさしくモニカの肌を滑るようにして包んだ。
「…あったかい……」
光はモニカの傷を癒していく。暖かさと引いていく痛みの中、モニカはゆっくりと目を閉じた。ずっと張り詰めていた緊張の糸が途切れたモニカはそのまま気を失う。カナタが腕を伸ばし、サラからモニカを引き受けた。
杏もモニカのそばに駆け寄り、しゃがみ込んでモニカを案じている。しかしカザミは一人その場から動かず、険しい表情をしていた。
「アンタは誰?あたしの記憶にはない顔だ。それに、なんでモニカが捕まってることが分かったの?」
鋭い視線でサラを射抜きながら、警戒した声で問う。魔法少女の数は多くない。カザミはその魔法少女の中でもリーダー格に入る。魔法少女の顔は全て覚えているはずだった。
サラはカザミを見つめ返す。迷っていた。どこまで本当のことを話して良いものか。しかし、ごまかしなど通用しないであろうことはカザミの雰囲気で感じ取ることが出来た。
「私は闇魔法族の生き残り。光魔法族と共存する道を探してこの城を探ってたんだよ。」
素直に全てを話す。それが最良の選択肢だとサラは考えた。
「そうしたら、この子の叫び声が聞こえて来たんだ。だから助けに来た。それだけ。」
カザミに睨まれながら、そしてその目を睨み返しながらでは自然と言葉も尖ってしまう。
その言葉を聞き、カザミは余計に訝しげな顔になる。
「お姉ちゃん!今はそんなことどうでもいいよ。モニカちゃんを助けてくれたんだから、恩人。それでいいじゃない。」
カザミをたしなめるようなカナタの言葉が、険悪なムードを生んでいたカザミとサラの間に割り込んだ。
「………」
カザミは何も言わないが、納得できないような顔をしている。
「でも闇魔法族ってのが本当なら、このままじゃまずいよ。長が来るんだから。」
「あ、そうか!」
カナタは気がついていなかった。闇魔法族の少女がここにいるとなると大問題になるのは間違いない。
「ちょっとごめんね。少しの間姿を消す魔法をかけるから。」
モニカの身体を杏に預け、サラの方に向き直る。手をかざすと、透き通る細い光の筋ががサラの身体を包み込んだ。それはサラを完全に覆い隠すと、空気に溶けるように霧散する。サラの姿はもう見えなくなっていた。
「これでよし…」
カナタは言うと振り返り、今度はサラに打ちのめされて倒れる男のそばへと歩み寄る。
「この人の記憶もちょっといじっておかないとね」
男がサラの姿を見ていたかは定かではないが、この男からサラの存在が知られる可能性がある。
「十分ぐらいでいいかな?えいっ」
カナタが男の額をポンと軽く叩くと、小さな光が跳ねた。姿を消すのに比べて、短時間の記憶を消すのは簡単なものだ。


その直後、廊下を歩くいくつかの足音が聞こえてくる。扉の蹴破られた部屋の入り口から長が数人の護衛を引き連れて現れた。
「一体何が起こったのだ?」
長は一瞬目の前に広がる光景に目を見張り、カザミの方を向いて問う。
カザミは長の目を睨んで答えた。
「それはこっちが聞きたいぐらいですよ」
「ちょ、ちょっと、お姉ちゃん!」
敵対心を剥き出しにするカザミをカナタはたしなめる。間に割って入ると、カザミはしぶしぶ身を引いた。
「長。私たちの家に何者かが侵入してモニカを攫って行きました。あまりに手際がよく、魔族の仕業とは考えられません。それならば光魔法族の誰かしかいないと考え、私たちはモニカを探しに来ました。そして、この部屋で拷問を受けるモニカを見つけたんです。」
「……」
長は無言で部屋を見回す。倒れる男。ぐったりとして気を失うモニカ。そして周囲に飛び散る血飛沫の跡から、ここで何が起きたのかは明白だ。
「しかし、一体誰がこんな事を…」
「分かっているはずです。長」
長の言葉をさえぎるようにカナタが言う。その声はいつもの温和なものではなく、冷静な中にも強い意志を含んでいた。
「こんなことをしようとするのが一体誰かなんて、はっきりしているはずでしょう。あなたが本当に一族のことを考えているのなら、目の前の事実から目をそらさないでください。逃げないでください。」
今度はカナタが長を見つめる番だった。睨むのではなく、ただジッと見つめる。強い期待を込めて。

長は何も言わなかった。ただ目を閉じ、何かを思案している。
煮え切らない態度にカザミは苛立ちを募らせた様子で、突然叫んだ。
「もういい!!アンタには何も期待してないよ。次モニカに手を出そうとしたら、本気で戦う。それだけ覚えておきなよ。この子にはこれ以上辛い思いをさせちゃいけないんだ」
カザミは強い調子で言い放つ。長は相変わらず何も言わないが、その顔が少し苦しげに歪んで見えた。
「カナタ!もう帰ろう。モニカを休ませてあげなきゃ。」
カザミの有無を言わせない調子に、カナタは無言で頷く。姿を消されたサラを忘れないように魔力を周囲に張り巡らせた。
「待て…!」
不意に長が声を上げた。
「今回のことは重く受け止めるつもりだ。信用しろとは言わないが、私に出来ることをしてみよう」
まさかこのような言葉が長の口から出てくるとは思わなかったカザミは呆気にとられる。しかし、小さな声で「お願いします」と呟いた。
次の瞬間、転移の魔法が発動して魔法少女達は姿を消した。

「これは何の騒ぎですかな?」
取り残された長と護衛の後ろから、しわがれた声が響いた。
長が振り返ると、そこにあったのは非魔法主義者を束ねる老人の姿。
(これ以上勝手を許すわけには行かない。一族のためにも……)
長は決意を胸に、老人に向かい合った。


家に戻ってきた魔法少女達はモニカを部屋のベッドに寝かせた後リビングに集まっていた。
「さて…」
ソファに腰掛けたカザミが口を開く。
「で、アンタが誰なのか、詳しく聞かせてもらおうか」
カザミの視線の先にあるのは当然サラの姿だ。
サラはこれを好機だと感じていた。この三人は光魔法族の中でも比較的信用の置ける者達なのではないか。トップに逆らってまでもモニカを助けに来たのだ。少なくとも、他の者達よりは協力を得られる希望が持てる。
「分かった。全部話すよ。」


「…じゃあ、あなた達の生き残りは子供十数人だけってこと…?」
カナタは驚きを隠せない様子でつぶやく。三年間、子供達だけで何もない森の中で生きてきた。それはどれほど困難なことだっただろうか。
「いつまでもこのまま静かに暮らしていけるとは限らない。何かのきっかけで居場所がばれてしまえば、あなた達光魔法族は私達を殲滅しようとするでしょうね。だけど、それに対抗する力は私達にはない。だから、なんとかして共存の道を探すことが私達が生きていく上で絶対に必要なことなんだけど…」
「それは無理じゃない?」
カザミが言う。
「モニカをあんな目に合わせたような奴らがアタシたちの上にはいる。共存なんて夢のまた夢ってところだよ」
「でも、私達に他の道はない。だから、私をあなた達と一緒に戦わせて欲しいんだ」
「一緒に戦う?なんで?」
杏が首をかしげる。
「私達の存在を認めさせるためには力を合わせて戦うのが一番じゃないかと思う。もちろん、それでどれほど認めてもらえるのかは分からない。でも、他に何も思いつかない。それに、ヴァイスは一族の敵。なんとしても倒したい気持ちは私だって持ってるんだよ」
「でも、アンタに何が出来るの?戦う力はほとんどないんでしょ?」
カザミは鋭い言葉でサラを射る。確かに、それはサラの持つ課題だった。一体何が出来るのか。気持ちだけでは何も解決しない。
「アタシに何が出来るかはわからない。でも、お願い。私達にはこれしかないの。」
サラは必死で頭を下げた。プライドなどどうでもいい。一族を存続させるため、仲間を守るためには何でもする覚悟はとうに決めている。
「いいんじゃないの?」
杏が呟いた。
「この人を仲間にして困ることなんて何もないでしょ?人手が増えるのはいいことだと思うけど…」
「それは、話したことが全部本当ならの話だね。実は生き残りは子供たちだけじゃなくて、光魔法族を倒す糸口を探しているとか…」
カザミは冷たく言う。サラの目には失望の色が浮かんだ。
「お姉ちゃん。意地悪するのはやめようよ。本当はそんなこと思ってないんでしょ?」
「……」
カナタの言うとおりだった。サラが嘘をついているとは思ってはいない。ただ、ずっと対立してきた闇魔法族の生き残りを素直に信用するのが癪だっただけだ。
「モニカちゃんを助けてくれたんだもん。私は信用するよ。杏ちゃんも賛成なんだよね?お姉ちゃんは?」
カザミは目を閉じ、俯いたまま考え込む。しかし、すぐに顔をあげると小さくうなずいた。
「いいよ。わかった。どれぐらい役に立つかは分からないけど、アンタの力じゃアタシたちに危害を加えることも出来ないだろうし。問題はないでしょ。確かに、人手が増えるのは悪いことじゃない」
サラの心に安堵が広がった。気が緩み、思わず涙がこぼれそうになる。
「ありがとう…」
それだけ言うのが精一杯だった。


葵は一人、拠点とする廃工場の屋上に座り込み、遠くを茫然と眺めている。前回の敗戦以来ずっとこの調子だ。もはや、杏を傷つけてまで戦いに臨むことなど出来はしない。一度敗れた葵を、透はもはや戦力とみなしてはいないだろう。しかし、もう役立たずでしかない葵をそのままにしていることが葵には疑問だった。戦力にならないのならば、葵を襲い、その能力を根こそぎ奪い取ってしまえばいい。今の透にはその力があるはずだ。そうすれば葵は死ぬことが出来る。一度は人間に戻るという希望も持ったが、もうそんな希望を持つことすら罪悪に思えた。何もせず過ごしていく日々のうちにも、生きているだけで葵の魔力は削られていく。魔力が枯渇し、自分を失って人を襲ってしまう前に死ぬことが出来るだろうか。今はただそれだけを願っていたが、葵にはどうすることもできなかった。

一方、透は悩んでいた。葵の敗北よりも、むしろ杏が力を少しずつ使いこなし始めていることが大きな問題だ。あれ以降何度か魔族を送り込んだが、その全てが敗北している。もう高位の魔族では歯が立たない。最高位の魔族と契約するか、もしくは透が直接戦うかしかないだろう。最高位の魔族との契約で消費する魔力は膨大だ。もし敗北したなら透に残される魔力は多くない。それは透の敗北を意味することになるだろう。それならば自らが赴いて、持てる全ての魔力で挑む方がずっと勝率は高い。しかし、杏に秘められた魔力は脅威だった。今の透の魔力ではあの力を発揮した杏を倒すことは出来ない。
実質、透に残された選択肢は一つだった。葵の能力をその身に取り込むことだ。他者の魔力を消滅させるという葵の能力を透が手にしたならば強大な力となるはずだ。そうすれば、杏の力も恐れることはない。簡単なことだった。そうすれば透の邪魔をする魔法少女を葬り去れるのだ。今あの魔法少女達の魔力を奪えば、透の魔力は十分なものとなるだろう。この馬鹿げた戦いを続ける必要もなくなる。それなのに、どうしてその一歩が踏み出せないのか。透はそれを悩んでいた。いや、悩んでいたのではないだろう。理由は分かっている。葵の姿を見て、透は自分のあり方に疑問を抱いているのだ。すぐに人であることを捨てた透と、人であろうとする葵。透は自分と同じ境遇にありながらも正反対の道を選んだ葵に感化されていた。葵を利用するために口走った「人間に戻る」という言葉。その言葉に希望を抱き、苦悩しながらも友人との戦闘に挑んだ葵。そのあまりに人間的な姿は、透に忘れていた何かを思い出させた。
透は戸惑っていたのだ。自分が葵を本当に人間に戻してやりたいと考え始めていることに。しかし、あんなのはハッタリだ。あのヴァイスをそう簡単に倒せるはずがない。ヴァイスという壁を考えると、何をしても無駄なように思える。奴がいる限り、自由などありはしないのだ。杏たちを倒したとしても、また次の戦場に送り込まれるかもしれない。ヴァイス。考えるほどその存在の強大さに気づかされる。透も葵も、そして魔法少女達も全てヴァイスの手の上で踊らされているに過ぎないのだ。

「馬木 透だな?」
不意に、透の耳に不気味な声が聞こえた。透は反射的に周囲を見渡すが、何も見えない。しかし、すぐにある感覚に気がつく。これは魔族との契約を結ぶときの感覚だ。通常の契約では、闇の魔法使いの側から魔族にコンタクトを取るのが普通だった。魔族側から声をかけてくるのは異例のことだ。そして、それが出来るのは最高位の魔族のみのはずだった。
「魔族が自分から声をかけるとはな。一体何のようだ?」
落ち着いた様子を装って返事をする透は、内心酷く警戒していた。それを見透かしたように声は言う。
「そう構えるな。俺は情報屋だ。お前に有益な情報をやろうと思ってな」
「情報だと?」
情報。それが一体何になるというのか。今必要なのは力だ。強大な。ヴァイスをも倒してしまえるほど強大な…。
「ヴァイスを倒したいだろう?それが可能だといったらどうする?」
「なんだと!?」
透は目を見開いた。ヴァイスを倒せる?全ての元凶であり、最大の障害であるヴァイスを?そんな情報があるのならば、是非とも得ておきたいところだ。だが、そのためには大きな問題があった。
「残念だが、お前のような最高位魔族と契約するほど魔力に余裕がないんでな…」
今、情報のために消費できる魔力などない。ヴァイスを倒す方法が見つかったとしても、目の前の魔法少女を倒せなければ意味がない。
「気にするな。魔力は後払いでいい。いや、むしろそうでないと困るんだがな」
「…どういうことだ?」
「この情報をお前が上手く活用できれば、お前は凄まじい力を得ることになる。そこから魔力を貰いたいのだよ」
「凄まじい力…」
それは一体どのようなものなのか。ヴァイスをも倒せる力だというのか。
「俺の情報はヴァイスの力の秘密に関してだ。それを知れば、お前も同等の力を手に入れることが出来るかもしれないぞ」
「ヴァイスの力の秘密!?」
いつでも自在に、そして際限なく魔力を取り込むことの出来る力。それさえあれば、ヴァイスと渡り合うことが出来るかもしれない。
「どうだ?お前にとっても悪い話ではないだろう?契約を結ぶか、結ばないか。答えを聞こう」
迷うことなど何もなかった。ヴァイスを倒す。自由を手に入れる。その可能性に飛びつかない手はない。
「わかった。契約を結ぼう。情報を聞かせてくれ」


「杏お姉ちゃん…」
四人が集まっていたリビングに、モニカが姿を現した。ボロボロになったローブは着替えて来たようだ。魔法で傷も癒えているため、パッと見では普段どおりのようにも思える。しかし、その顔には明らかに拷問のショックで暗い影が落ちていた。
「モニカちゃん!起きてきて大丈夫なの!?」
杏は叫ぶと、案の定フラフラと頼りなく歩くモニカの元に駆け寄り、身体を支える。
「わたし…話しておきたいの。知ってること全部。誰よりもみんなに」
蒼白な顔のまま、決意を秘めてモニカは訴えた。弱々しく揺れながらもどこか強さを感じさせるようなその声に、誰も反論することはできない。杏に支えられながらゆっくりとソファに腰掛けると、モニカは話し始めた。

「お爺ちゃんたちがわたしを光魔法族の集落に連れ帰る前のことはあんまり覚えてないんだ。でも、幸せだったと思う。お爺ちゃんが言うにはね、お父さんとお母さんの力が混ざり合って増幅されて、その力の光と闇の部分を私とお兄ちゃんは分け合ったんだって」
「増幅……分け合った……」
カザミが眉を寄せる。
突然モニカは後ろを向き、ローブの背中を捲り上げた。その白く細い背中の上の方。肩甲骨の内側の辺りに何かが見える。
四人は皆息を呑んだ。そこにあったのは、その白い背中よりもずっと白い羽。それはあまりにも小さく弱々しい。
「わたしの背中にはこの白い羽。お兄ちゃんには黒い羽があった。それがわたしだけが連れて帰られた理由。光の魔力の象徴の白い羽を持つわたしにはすごい力があると思ったんじゃないかな…。でも、わたしは全然力を発揮できなくて、お爺ちゃんはすぐにわたしを家から放り出した」
「ひどい……」
「わたしは孤児院に預けられた。わたしのことはみんな知ってたから、すごくいじめられたよ。でもいつも必死で耐えてた」
カザミとカナタは俯いた。その時、モニカに手を差し伸べなかったことを悔やんでいるのだろう。
「だけどある日、私は耐えられなくなった。なんでわたしがこんな目に遭うんだろう。どうしてだろうって。皆が憎かった。全部壊してしまいたい気持ちと、すごい力が湧き上がってくるのが分かったの」
「覚醒…?」
カナタが言う。魔法使いは、強い感情をきっかけに潜在する能力を一気に引き出すことがあるのだ。
「いや」
しかし、カザミは否定する。
「この場合どっちかって言うと暴走だろうね。でも、暴走なんてしなかったよね?そしたら大騒ぎになってるはずだし」
モニカは頷いた。
「わたしは怖かった。だから必死で湧き上がってくるものを押さえ込んだの。出てこないで、出てこないでって。すごく苦しかったけど、それでなんとか治まった。わたしはそのままいつのまにか眠ってた。でも、次の日起きたら周りは大騒ぎになってた。お兄ちゃんが、たった一人で闇魔法族を滅ぼしたって」
「それって…」
杏はそれだけ言い、言葉を失った。他の三人も同様の反応だ。
「お兄ちゃんの行動はわたしのせい。私がみんなを憎んだから。だから、わたしには責任があるんだ。みんながわたしを恨むのも当然かもしれない…」
言い終えると、モニカは肩を落とし俯いた。
「でも、そんなのわからないでしょ?偶然って言うことも…」
「いや」
モニカとヴァイスの行動の関係を否定しようとする杏の声を遮って、カザミが話し始めた。
「可能性は十分にある。あたし達魔法使いは、血縁関係にある人同士が魔力で繋がってるんだ。モニカとヴァイスは双子。あたしとカナタのような姉妹よりも遥かに深く繋がっているはず。小さい頃ならより影響を受けるだろうしね」
「モニカちゃんが押さえ込んだ魔力が、血の繋がりを通してヴァイスに流れ込んだ。押さえきれないほどの感情と一緒に。そして、爆発した…」
「うん。多分そうだと思う」
モニカは俯いたまま暗く言う。
「わたしはあの時、みんな、みんな憎かった。わたしをいじめた子達も、見てみないふりをする周りの人たちも、助けに来てくれない両親も。わたしの中に流れる光の血も闇の血も。わたしを苦しめる光と闇の魔法族っていう種族自体も」
「だからヴァイスは両親を殺し、その後やってきた闇魔法使いをきっかけに、闇魔法族を根絶やしにした」
「そして、次は光魔法使い達を……」
「……」
杏は何も言えず、ただ聞いていることしか出来なかった。
「その後、突然ヴァイスは手を止めるね。そしてゲームを提案した。あれは一体どういうことなんだろう?」
カザミは浮かんできた疑問を口にする。何故、ヴァイスは光魔法族を全て殺す前に手を止めたのか。
「…きっと、それはわたしが事の重大さに気づいたから」
「どういうこと?モニカちゃん」
「わたしは、お兄ちゃんが闇魔法族を滅ぼしたって聞いたときにすぐに分かった。わたしが原因なんだって。そしたら、すごく怖くなった。わたしは取り返しもつかないような酷いことをしたんだと思ったの」
「なるほど、モニカが抱いていた憎しみの感情は消えて、戸惑いでいっぱいになった。だから、ヴァイスを突き動かす衝動も止んだわけだ」
「でも、じゃあどうしてそのあとゲームなんかを提案したんだろう?」
「多分、ヴァイスも戸惑ったんじゃないかな。突然我に返ると、自分のしたことの意味に気が付く。その戸惑いはきっとモニカよりも遥かに大きい。自分は一体これからどうすればいいのか分からない。取り返しの付かないことをして、降伏したならば処刑されるのは目に見えていた。それなら、感情に流されてしまえばいいと思ったのかもしれない」
「……それじゃあ…」
ずっと黙っていた杏が口を開いた。
「じゃあ、ヴァイスも被害者だったっていう事?」
諸悪の根源のように思ってきたヴァイスが、実はそうではないかもしれない。そのことに杏の心は揺り動かされた。
「最初は、ね。今はもう被害者だとは言えない。ヴァイスは正気に戻った後、現実とまっすぐに向かい合うことをしなかったんだ」
カザミは冷たい声で言う。その声はどこか自分を言い聞かせるかのようでもあった。ヴァイスは敵なのだと、倒すべき存在なのだという思いがぐらつかないようにしっかりと支えようとする声だ。
「でも、これでやっとこの悲劇を作り出した犯人がわかったね…」
「そうだね」
カナタが小さくつぶやく。それにカザミも応じた。
モニカはビクッと大きく身体を振るわせた。そのまま身を縮こまらせ、顔を伏せる。
カナタは立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。モニカの前まで来ると立ち止まり、その場で膝を折る。そして、そのままモニカを優しく包むように抱きしめた。
どんな罵声を浴びせられるかと恐れていたモニカは、予想とは全く正反対の暖かな行為に茫然としていた。
「ごめんね、モニカちゃん。今まで苦しかったでしょう?全部私たちが悪かったんだ。あなたを優しく受け入れられなかった私たちが……」
カナタは両方の瞳から涙を溢れさせながら言う。強く抱きしめる腕にモニカは微かに痛みを感じ、同時に強い優しさに包まれた。


「その妹の魔力がヴァイスに流れ込んだのが、ヴァイスの力の秘密だというのか?」
「そうだ」
魔族は透に情報を伝えていた。
「なぜ、そんなことが言い切れる?」
「俺達魔族は魔法族なんざよりも遥か昔から生きてるんだ。奴らがまだ二つの種族に分かれる前からな。その頃には、ヴァイスのような力を持つ奴らも珍しくなかった。その大体が、こういったケースなんだよ」
「分かれる前から…?」
光と闇の魔法族は元は一つの種族だったということか。
「それは今はどうでもいい。双子が分け合った力。元は同じ力でありながら、それぞれ正反対の方向へと開花した力。それが一つになったことであのヴァイスのような力が生まれたわけだ」
「なるほど。つまり、二人の魔力が混ざり合えばいいというわけだ」
「それだけではない。本人達ならばともかく、他人がその力を得るには条件がある」
「条件?」
「光の魔法使いでも、闇の魔法使いでも、その強大な力には耐えられない。耐えられるのは、その両方の力を持つものだけだ」
「両方の力?それはただ光の魔法使いから魔力を奪えばいい、というわけではないんだろうな」
「その通りだ。所詮、他人から得た魔力など表層のものに過ぎない。もっと根底に両方の魔力を持つ必要がある。だが、その点でお前は恵まれている。お前の魔力の源はヴァイスの魔力だ。お前は強大な力を使いこなすだけの素質を持っている」
「条件だけで言えば、妹の魔力を得る以前のヴァイスと同じ、というわけか」
「そうだ。だからお前はただヴァイスの妹、モニカの魔力を奪えばいい」
確かにこれは有益な情報だった。この話が確かならば、ヴァイスと同等の力を得ることが可能だ。そうすれば、透も葵も人間に戻れるかもしれない。
「…ただし」
「なんだ?何か問題でもあるのか?」
「同等の魔力を持っていても、それを使いこなせるかどうかという問題がある。その点で、お前はヴァイスに劣るだろう」
「……」
その通りだった。まだ力を得て間もない透がヴァイスに挑んでも勝算はないに等しいだろう。
「だが、お前は運がいい。ヴァイスを確実に倒せる力を得る機会がすぐそばにあるのだからな」
「!!!」
魔族が何を言わんとしているのか、透にはすぐに察しがついた。
「葵の能力か…」
「そう。あれは極めて特殊な力だ。あれさえあれば、確実だろうなぁ」
魔族の声がいやらしげに響く。しかし、透はその声には耳を傾けようとしなかった。以前の透ならば、何の迷いもなかっただろう。しかし、今の透には葵を犠牲にすることなどということを考えることは出来ない。
「せっかくの助言悪いが、それはしない。俺の力だけでヴァイスを倒してやるさ」
「ふ…まぁ、俺はそれでもいい。それまでに十分魔力は頂けるだろうからな。…さて」
「!!?」
突然透の頭に衝撃が走った。戸惑う透だったが、すぐに魔族が情報を送り込んだのだと分かる。
「すまんな。俺クラスになると、ちょっとした情報を送るだけでもただの魔法使いには辛いらしい」
嫌味たらしく笑いながら言う魔族の声を聞き流し、得た情報に神経を尖らせる。それは魔法少女達の住処の情報だ。モニカもそこにいるという。必要な情報は全て整った。後は透が覚悟を決めるだけだ。
「最後に一つ聞かせてくれ。何故わざわざ俺に情報を与えた?お前のような魔族なら、今更大して魔力など必要としないだろう」
「ヴァイスのおかげで俺達魔族の世界も面倒なことになってんのさ。あいつは適当に魔族を召喚して戦わせるもんだから、急に力をつける奴らが出てきた。そのせいで俺達のパワーバランスも崩れつつある。だけどな、俺みたいな情報屋は提供する先がなくなって困ってるんだ。だから俺にとっちゃヴァイスなんて面倒なやつには消えて欲しいわけだ。お前から魔力を得られるならさらに都合がいい。そういうことだ」
「なるほどな、分かりやすくていい。魔族の善意なんて奇妙なものが理由じゃなくて安心したよ」
「後のことは俺は一切関知しない。自分でやれよ。俺は元々魔法界だの人間界だのには大して興味がないんだ。ちょっとは静かにさせてくれ」
「期待に沿えるように努力はしてみるさ」
透が答えると、魔族の気配は消え去った。


日が沈み出し、風も冷たさを帯び始めた。葵は寒さに少し身を震わせ、屋上を後にする。廃工場の中に入ると、そこにはいつも通りの光景が広がっていた。幾十もの魔族が葵と同じように時間を持て余している。契約主である透が何も指示をしないのだ。契約に縛られている魔族達は街に人を襲いに行きたくても、それができない。こみ上げる衝動を必死で押さえることを余儀なくされた魔族達によって、この場は異様な圧迫感に包まれていた。今日もまた同じように一日が終わろうとしている。葵は先の見えない不安を感じながら、同時にどうしようもない無力感に包まれていた。

突然、廃工場の扉が勢いよく開け放たれた。大きな音に葵も魔族達も驚きそちらを振り向く。葵は魔法少女達が侵入したのかと一瞬思ったが、そうではなかった。そこにあったのは透の姿だ。しかし、様子がおかしい。中に入ろうとしないままその場に立ち尽くし、俯いている。その場にいる誰もが言いようもない不安を感じていた。一体何が恐ろしいのか分からないが、確かに何かに脅えていた。それなのに、誰もが何の行動も取れずにいた。形のない恐怖にどう対処すればいいのかわからなかったのだ。しかし、十秒もたたないうちに魔族達は恐怖から解放されることになる。
突然、透は手を前にかざし、次の瞬間には魔族達が全て透の魔力に捕らえられていた。透の魔力は黒い球のような形を成し、魔族達を包み込む。その球は急速に収縮していき、悲鳴を上げることすら許さずに幾多の魔族を小さな、そして強大な魔力の塊へと変えてしまった。先ほどまでの異様な圧迫感は消え去り、残ったのは静寂のみ。透は何も言わずにその魔力の塊を体内に取り込んだ。

この廃工場にはいまや透と葵の二人しかいなかった。葵はいま目の前で起きたことに対応できず、茫然とするだけだ。透が葵に向き直ると、身体を駆け抜けるような恐怖に葵は震え上がる。その一方で、ついに自分を殺してくれるのかという仄かな希望も感じていた。
だが透は何をするでもなく、葵に語りかける。
「全てを終わらせてくる。お前はもう好きにしろ」
葵は透の言葉の意味を掴めずにいたが、透はそれ以上何も言わずにどこかへと飛び去っていった。
一体なんだというのか。終わらせるとは何なのか。好きにしろといわれたところで、一体どうしろというのか。一人静寂の中に取り残された葵はただ立ち尽くしすことしかできなかった。


「何か来る!?」
カナタはいち早くその異常に気が付いた。大きな魔力が発現し、とてつもない速度で一直線にこちらに迫ってきているのを感じる。
轟音と衝撃が周囲を襲ったのはその直後だった。
「きゃああああっっ!!!」
夕食を用意しようとしていたカナタは台所に倒れ伏す。
「まさか…。結界が破られた!?」
何故この場所がばれたのか。そんなことを考えている余裕は無かった。数秒前まで確かにそこに存在していた結界の気配を今は全く感じることができない。とにかく襲撃者を迎え撃たなければならないのだ。しかし、感じ取れる魔力の大きさにカナタは震えを抑えることができなかった。

「あ……あぁ……」
震えているのはモニカも同じだった。傷ついた体を癒すため部屋で眠りについていたモニカ。
透は結界を破壊して敷地内に侵入すると、モニカの部屋の壁を腕の一振りで吹き飛ばす。
目を覚ましたモニカは目の前に広がる光景に呆然するしかなかった。やっと手にした安らぎの場所は無残に破壊され、壁を失った空間から冷たい外気がモニカの体に吹き付ける。妙に広く開けた視界の中心にはマントを羽織る男が一人浮かんでいた。沈みかけの夕日の紅い光が後ろから男を照らす。逆光のせいでその表情は読み取ることができず、不気味さを際立たせていた。モニカには、その暗く影の落ちた顔の中で目だけが光を放ち、ギロリと自分を睨むのが見えた気がした。
その瞬間に男の放つ絶大なまでの魔力がモニカの体を縛り付ける。何をしたのでもない。ただそこにいるだけでモニカの小さな体は完全に自由を奪われてしまった。男は無言で手を伸ばす。モニカは目を閉じ、死を覚悟した。

「てああああぁぁぁぁっっ!!!」
しかし透の手がモニカに触れる直前、強い光が透を打ちのめした。
「モニカちゃん!!大丈夫!?」
まるで金縛りが解かれたように体の自由が戻ってきたモニカは、声のする方を振り返る。部屋の床に大きな穴が開いていた。杏がそこから現れるのが見える。モニカに迫る魔力に気が付いた杏は悠長に部屋の扉をくぐることなどせず、直線距離でモニカの元へ駆けつけたのだ。ついでカザミ、カナタ、少し遅れてサラが追いついてくる。
不意打ちの攻撃で体勢を崩した透はしかし傷一つ負ってはいなかった。服にすら傷は付いていない。
「あの時の……!!」
杏は透の姿を見るなり睨みつけた。葵に勝利したあの日、葵を連れ帰るのを阻んだあの男だ。少女のものとは思えないほど気迫のこもった眼光にも透は全く怯む様子がない。一瞬の沈黙の後、杏は勢いをつけて飛び出した。それを合図にカザミとカナタも攻撃に移る。サラはモニカを守るように抱え、この場から離れようと駆け出した。
だが、今の透の魔力の前ではどれも意味を成すものではない。杏の魔力を込めた拳は片手で容易く受け止められ、カザミとカナタが放った魔法に至っては何もせずとも透の体に届く前に消滅した。透は杏を押し返す。強烈な力で吹き飛ばされた杏の身体ははモニカのベッドに衝突し、真っ二つに叩き割る。ターゲットであるモニカを逃がすわけにはいかない。透は一瞬目を閉じるとその手を振りかざした。
深い闇を思わせる黒い魔力の塊が周囲に溢れる。それは瞬く間に魔法少女達に絡みつき、捕らえてしまった。

「くそっ!!くそおぉっっ!!!」
杏は叫びながら何とか逃れようともがくが、闇の束縛はビクともしない。
「そう暴れるな。大人しくしていれば、お前達はすぐに解放してやる…」
透は杏達には興味がないとばかりに冷ややかな声で告げる。
「どういうこと…?」
カナタは訊ねた。
「お前達はもうどうでもいい。俺の狙いはそこにいるヴァイスの妹の魔力だけだ」
透の目に射すくめられたモニカが再び震えだす。
「俺はそいつの魔力を奪い、ヴァイスと同等の力を得る。そして奴を倒す。そうすればこんな無意味な戦いは終わりだ。お前達も望むところだろう」
「モニカの魔力を奪う……!?それでヴァイスと同じ力が手に入るって言うの!?」
カザミが叫ぶ。
「ヴァイスの力の源はそいつの魔力がヴァイスに流れ込んだことだ。知らなかったか?そいつが全ての元凶なんだ」
「「「「違う!!」」」」
叫んだのは四人同時だった。自分が原因だと、自分を責め続けてきたモニカの前でこのようなことを口にする透を誰もが許せなかったのだ。
「違わないさ。そいつが元凶だ。俺がその魔力を持って全てにケリをつけてきてやる。お前達はただ黙って見ていればいい」
杏達がどれだけ否定の言葉を浴びせようと、透の耳には入らない。杏達を完全に視界の外へと追いやり、モニカに近づいてゆく。
「違う……」
杏は低く、小さな声で呟いた。
「違うよ。絶対に違う。モニカちゃんは犠牲になっただけだ。これ以上、モニカちゃんを辛い目に遭わせるなんて許せない!!」
次第に大きくなる声に呼応するように、杏は自分の体に魔力が溢れてくるのを感じた。
(私の中に秘められた力があるのなら、今ここで私の声に答えて。モニカちゃんを守るんだ!!)
心で強く念じた瞬間、杏の胸が大きく鼓動した。ドクン、ドクンと次第に早く脈打つ。溢れた魔力が体中に浸透していくのが分かった。これが自分の持つ力なのだと確信する。これならば透にも太刀打ちできる。
「うわぁぁぁっっっ!!!」
杏は叫び声を上げ、闇の束縛を引きちぎった。バラバラに裂かれた闇は微かに残る夕日の光に照らされるように溶けていく。

透は初めて怯んだ。恐れていた事態が起きてしまった。杏の秘められた魔力の覚醒。その力に今の自分の力が勝っているという確信は無かった。モニカに背を向け、杏と向かい合う。杏から感じられる魔力はこれまでのものとは桁外れだった。少しの油断も許されない。全力で戦わなければ勝てないと悟る。
「間違ってる……。あなたは間違ってる!!」
杏は叫ぶ。
「これ以上、モニカちゃんを犠牲にしちゃいけない。そんなことで得た平和なんてすぐに壊れるに決まってるよ」
「それなら、お前達にヴァイスが倒せるのか?魔力を覚醒させて、やっと今の俺と釣り合う程度の力しか持たないお前達に!!」
透も負けじと言い返す。
「手段など選んではいられない。俺はもうこんな戦いはウンザリなんだよ。今すぐ終わらせる。そして人間に戻る。人間に戻してやるんだ!!」
口が滑った、と思った時には遅かった。杏は透の言葉に首を傾げる。
「戻してやる……?まさか、葵ちゃんのこと?」
透の胸にこみ上げてきたものは気恥ずかしさか苛立たしさか。どちらにせよ、これ以上この話題を続けるつもりは無かった。
「そうなんだね?葵ちゃんを元に戻すためにヴァイスを倒そうとしてるんだ。それなら、私たちと一緒に戦おう!力を合わせるんだよ」
透は、必死で話しかける杏に答えることができたはずだった。しかし透はそれをしなかった。
「ふざけるな、手など組むものか!!俺はお前達の手など借りない。俺の力で魔力を奪い、ヴァイスを倒してみせる!!」
透は全てを捨てる覚悟で、勢いに任せてここへとやってきた。いまさら道を変えることなどできなかったのかもしれない。
杏は辛そうに目を伏せる。
「それなら、私は全力あなたを止める。モニカちゃんには指一本触れさせない!!」
光が弾けた。
杏と透、両者から発せられた強力な魔力はちょうど二人の中間でぶつかり合い、爆発を起こした。目も眩むような光の中、杏は透に向かって攻めかかる。さきほどと同じく魔力を込めた拳を透に叩き込んだ。その威力は先程とは全く異なっていた。透は防御壁を作り出しそれを受け止める。二人の魔力は拮抗していた。

戦いから取り残された四人の魔法少女達は見つめることしかできない。身動きすら取れない状態でできることなどあるはずもない。だがもし仮に自由に動けたとしても足手まといにしかならなかっただろう。カザミは自分の非力を呪った。何もすることができない。それではここに存在しないも同じではないか。
だが、彼女達の存在は確かな意味を持っていた。
一進一退の攻防を続ける杏と透。このままではいつ決着が付くのかはわからなかった。しかし、一瞬の隙を突いて透は魔法を放った。杏にではない。カザミとカナタに向けてだ。防御すらできない二人が今あの攻撃を受けたならば、待ち受けるのは死しかない。杏に悩む時間など無かった。反射的にカザミとカナタの前に立ち、透の魔法を魔法で相殺する。
その時点で勝負は決まっていたも同然だった。杏が二人を庇っている間に透は渾身の魔法を杏に向けて放っていた。魔法を相殺したばかりの杏にそれを避ける余裕などあるはずもない。
死を覚悟して目を閉じた杏には、不意にそこへ飛び出してきた影が見えていなかった。