カザミ達の家には絶望が蔓延していた。
昨日葵に敗北し、陵辱を受けて戻ってきたカザミは未だ目を覚ましていない。カザミを救出して来たカナタは悲しみに泣き疲れ、カザミに寄り添うようにして眠っていた。杏は一人目を覚ましていたが、未だショックからは立ち直れずにいる。
魔法少女達は危機に瀕していた。葵という魔法の効かない強敵を前に、杏は破れ、陵辱され、魔力を奪われた。杏はとても戦える状態にはなく、カザミ一人で何とか魔族達と戦わなければならない。しかしそのカザミすらも敗れた今、魔法少女達には成す術がなかった。
この家に残る二人の魔法少女、カナタとモニカ。彼女らは戦いには向かない。カナタはサポート役であり、魔法少女達の生命線とも言える存在だ。以前は我を失って戦いに飛び出したが、今そんな危険を犯すわけには行かない。モニカには戦うだけの力がない。ヴァイスとの双子でありながら、同様の力を発揮することはなかった。だからこそ、魔法界から見切りをつけられたのだ。
彼女らの最後の希望。それは杏だった。杏は強大な力を秘めている。いまやその力に期待するほかないのに、杏は今も心を閉ざし続けていた。
カナタは目を覚ました。一瞬ぼんやりとするが、自分が現在置かれている状況を思い出し、すぐにその顔は落胆に沈む。本来なら可愛い顔のした少女も、絶望の中で泣き叫んだせいでその目は充血し、頬は涙に濡れ赤く腫れて、見る影もない。カナタはまた溢れ出そうとする涙を堪え、目をこすりながら立ち上がる。覚束ない足取りで杏のそばへ近寄ると、膝を付き、杏の手を握った。
「杏ちゃん。起きてる…?」
カナタの喉は嗄れ、声はかすれている。
「…うん」
杏は相変わらずどこを見ているとも知れない視線のまま、ぼんやりと答えた。
「あのね…私達はもうダメかもしれない。でも、私達は最後まで戦い続ける。だけど、杏ちゃんはそれに無理に付き合ってくれなくてもいいんだよ。杏ちゃんがいいって言うなら、私が杏ちゃんの記憶を消して、家に帰してあげられるの。」
杏の目に微かに動揺の色が浮かぶ。家に帰る?記憶を消して。全てを忘れて…?
「すぐに答えを出してくれなくてもいいの。一緒に戦ってくれるならそれは凄く嬉しいけど、無理だけはしてほしくない。だから、ゆっくり考えて。」
杏は何も答えない。無言でずっと天井を見つめるだけだ。カナタはそれだけ言うと、ゆっくりと部屋を後にした。部屋を出ると、とぼとぼと力ない足取りで歩き出す。杏はどういう答えを出すだろうか。まだ自分達と一緒にいてくれるだろうか。しかし、それは難しいように思えた。戦うのが辛い相手、しかも絶望的な状況でのこの戦いを望むことなどないのではないか。
(本当にもうダメかもしれない…)
杏がいなくなってしまえば、自分達に勝機があるようには思えなかった。やはり杏の復帰だけが頼りだ。
(でも、杏ちゃんはこのままじゃ戦えない。何とか、杏ちゃんの心を癒すことが出来れば…)
しかし、一体どうすればいいというのか。カナタが何を言っても杏には届かない。それならばいっそのこと、記憶を消して家に帰すことが杏のためではないか。杏は部外者だ。光魔法族とヴァイスの戦いに巻き込まれる必要はない。それでも、やはり杏に頼るしかないのが悔しくて仕方がなかった。
(どうしたらいいんだろう、お姉ちゃん…)
まだ意識を取り戻さない姉を想う。魔法少女、そのサポート役として多少大人びてはいるものの、カナタはまだ幼い少女だった。この危機的状況に平静を欠き、心を乱され、悩んでいた。もうどうしていいのか分からない。カナタ一人で全てを背負うには問題が大きすぎた。
力の入らない手でどうにかリビングの扉を開く。そこに見えた影に、カナタは少なからず驚いた。
杏はカナタに言われた言葉を考えていた。
(記憶を消す…家に帰る…)
辛いことは忘れられる。ゲルドに犯されたことも、敵となった葵に犯されたことも。そして、普段の生活に戻ることが出来る。それは辛さに押しつぶされそうになっている杏にとって喜ばしい選択のはずだった。しかし、杏はそれを選択することに戸惑いを感じている。
(なんでだろう…もうこんな思いはしたくないのになぁ…)
ぼんやりと考えた。何がひっかかっているんだろう。どうせ自分が残ったところで、役になど立たない。葵とまともに向き合うことも出来ないだろう。もし出来たところで、また敗北し、犯されてしまうのが関の山といったところだ。
じゃあ何だろう…。記憶を消されて家に帰ったとき、自分はどうなっているのかを想像してみた。
自分は長期にわたって失踪していたが、記憶を無くした状態で家に帰る。親は一応安堵するも、一体何があったのかと気が気でないだろう。警察なんかに事情を聞かれるかもしれない。学校の他の生徒のように無断欠席を続けるだろうか?犯され、記憶を消されて家に帰された彼女らと同じように。しかしいつかはそれも終わり、日常へと戻っていくのかもしれない。最初は向けられるであろう好奇の瞳も長くは続かないはずだ。
それもいいのではないか。そう思いかけたとき、心の空洞に気が付く。足りない。何かが足りない。一体何が…。
(葵ちゃんは、戻ってこない…)
そう。葵が戻ってくることはない。自分がいなくなれば戦況はさらに悪化し、葵が元の生活に戻る可能性はさらに低下するだろう。それが、杏の気がかりだったのだ。しかし、自分がいれば葵を助けられるだろうか…。杏にはそんな自信が微塵も持てなかった。
(どうしたらいいんだろう…)
杏は目を閉じ、考えた。いつかは選択しなくてはならない。だが、少なくとも今の杏にそれをするだけの力はないように思えた。
しばらくが経ち、杏が少しずつまどろみ始めた頃。ふと、扉の開く音が聞こえた。カナタだろう。そう思った杏は目を閉じたまま動こうとはしなかった。今の杏に、カナタと話をするだけの余裕はなかった。決断を下すこともできず、会わせる顔がない。
足音は杏のベッドへと近づいてくる。ベッドの横で止まると床に膝をつく音が聞こえ、その手が杏の手を包んだ。それはカナタのものよりも小さく、頼りない。それほど大きなわけでもない杏の手でも、握り返したら折れてしまいそうだ。
杏は目を開き、その人物を見る。それはモニカだった。今にも泣き出しそうな顔で、杏の目を見つめ返してくる。
「モニカ…ちゃん…?」
杏は驚きを隠せなかった。モニカは部屋から出ようとしなかったはずだ。わざわざこの部屋までやってくるとは思ってもみなかった。
「杏…お姉ちゃん…」
モニカは消え入りそうな声で話し始める。その声はあまりに不安定で、今にも裏返り、泣きじゃくってしまうのではないかと思えるほどだった。
「また来てくれるって言ったのに。本を持ってきてくれるって言ったのに。来てくれなかったから、心配になって…」
ああ、この子は自分を心配してくれていたのだ。杏はそう思うと、胸に熱いものがこみ上げるのを感じた。自分だって決していい状況にはないというのに、それでも人の心配が出来る子なのだ。この子は。
「だから、リビングまで出て行ってみたの。そしたら、カナタお姉ちゃんに会って…」
とうとうモニカは泣き出してしまう。
そうか、カナタから自分達のことを聞いたのだ。杏は察しが付いた。
「わたし、知らなかった。みんながお兄ちゃんと戦っていることは知ってた。負けたら酷いことになることもなんとなくは知ってた。でも、こんなに辛い思いをしてるなんて…。」
モニカの瞳から涙がボロボロと零れる。お兄ちゃんとはヴァイスのことだろう。
「お兄ちゃんのせいでこんな辛い思いをしてる人が他にもいっぱいいるんだもんね。妹のわたしをみんなが責めるのも当たり前かもしれない…」
違う!そう言いたかったが、杏はその力がなかった。ただ、モニカの悲しみの心に胸が締め付けられるだけだ。
「杏お姉ちゃんの友達も、お兄ちゃんのせいで巻き込まれてるんだよね。だから、杏お姉ちゃんも辛いんだよね。」
モニカはその弱々しい手で、それでも力強く杏の手を握り締めた。
「あのね、この間わたしに、わたしは悪くないって言ってくれたでしょ?すごく嬉しかったんだ。心が軽くなるような、そんな気持ちでね。だって、あんなこと言ってもらったことなかったから。」
杏は思う。この子はあんなありふれた励ましの言葉すらかけてもらったことがなかったのだ。自分のちょっとした一言がこんなにもこの子に響くなんて…。
「わたし、色々考えたんだ。みんなわたしのこと嫌いなんだと思ってた。もちろん、嫌いな人もいたんだと思う。でも、もしかしたら、みんなわたしのことが怖かったのかなって。」
「怖い?」
杏は何とか返す。
「うん。わたしはみんなが怖かった。誰かにわたしの気持ちを伝えて、助けてほしかった。でも、怖いから何も出来なかったんだ。みんなもそうだったのかなって。みんなわたしのことを避けてたけど、それは私が怖かったから近づけなかっただけなのかな。わたしと同じなのかなって。」
「なんで怖かったの?」
「わかんない。でも、近づいたら傷つきそうで、傷つけそうで怖かったのかもしれない。わたしは、みんなから嫌われてると思ってたから、近づいたって嫌な思いをされると思ってた。そうしたら、わたしも悲しい。だから近づかなかったの。」
「でも、近づきたかったんだ。」
「そう。わたしは寂しかったんだ。いつも一人だったし。誰かといる時は、いじめられる時だった。でも、みんなも。みんなのうちの誰かは、私と同じような気持ちでいてくれたのかなって。」
「…そうだね。きっとそうだよ。近づきたいのに、怖かったんだ。」
実際、カザミとカナタはそう言っていた。怖い。手を差し伸べてこなかった、自分の罪を感じさせれるのが怖いと。
「わたし、本当はもっと早く降りてきたかった。杏お姉ちゃんがどうしてるのか知りたかった。でも、怖くて怖くて、今日になってやっと降りてこれたんだ。」
「偉いね、モニカちゃんは…」
本当に、心からそう思った。迫害されてきたモニカはきっと人と接することが怖かっただろう。それなのに、勇気を出して自分のことを探しに来てくれた。それはどれほど大変なことだったのだろう。
「わたし、杏おねえちゃんに助けてもらった。この間、ああ言ってくれなかったら、まだ部屋から出られなかったと思う。」
杏は単純に嬉しく思った。自分が誰かの助けになれた。それは深く沈んだ杏の心を少しだけ軽くした。
「だからね。わたしも誰かの力になりたい。わたしに出来ることはなんでもして、人を助けてあげたい。」
モニカの言葉は力強かった。小さな体、小さな手。そこからモニカの思いは杏に伝わってくる。そのとき、杏の手を握るモニカの手がぼんやりと輝くのが見えた。すると、その手から暖かいものが杏の中に流れ込んでくる。それはカナタの使う治癒の魔法とは異質なものだった。不思議と心が安らぐ。杏の心は何日かぶりの穏やかなものへと変化していく。
(出来ることは何でもして助けたい、か。)
その言葉は杏の心に強く響いた。自分に出来ること。それを杏は全てやり遂げただろうか。葵を救うために出来ることを。
先ほどまでの鬱々とした気持ちが嘘のように、杏の心は活気に満ちていた。葵を救うのだ。その気持ちが再び心にわきあがってくる。それが出来るのは自分しかいないのだ。なぜそれを忘れていたのだろう。葵の陵辱に杏は苦しんだが、きっと葵も杏を苦しめたことに苦しんでいるはずだ。杏にはその苦しみを少しでも癒そうとしてくれる仲間がいる。しかし、葵にはいるだろうか。もしもいないのなら、その役目は杏以外の誰のものでもない。
「ありがとう、モニカちゃん。」
杏は出来る限りの感謝を込め、モニカに告げる。
「モニカちゃんのおかげで、私も救われちゃったよ。」
モニカは唖然としている。唐突な杏の変化に戸惑っているのかもしれなかった。
迷っている暇なんてない。自分に出来ることはまだまだあるはずだ。
「カナタちゃん」
杏がリビングへ入り声をかけると、カナタが驚いて振り返る。
「杏ちゃん!?もう起きて大丈夫なの!?」
驚くのも無理はないだろう。つい先程までまるで重病人のようにベッドから動けなかったのだ。
「うん。もう大丈夫。モニカちゃんのおかげかな。」
本当のところ、何故ここまで変わることが出来たのかは分からなかった。
(モニカちゃんの手から流れてきたあの暖かい感覚…あれのおかげなのかな?)
杏は思う。しかし、モニカはほとんど力を使えなかったはずだ。どういうことなのだろう。
だがそれより、今はやるべきことがある。
「カナタちゃん。ちょっと欲しいものがあるんだ。もしあったらすごく助かるんだけど。」
「欲しいもの…?」
カナタは不思議そうに首を傾げた。
その夜、再び戦場に立つ杏はやはり恐怖を完全に克服したわけではなく、体が小刻みに震えるのを歯を食いしばって必死で堪えていた。それでも、その心に迷いはない。なんとしても葵を救い出すのだ。葵のことを忘れて元の生活に戻ることなど出来ない。杏は肩から普段のコスチュームとは別にマントを羽織っていた。カナタに頼んで探してもらったものだ。
「杏ちゃん。でも、これは大して強力なものじゃないよ?一応魔法には耐えるけど、魔法障壁の方がずっと強いし、あんまり使えないと思うんだけど…」
カナタは怪訝そうに言う。こんなもので何をするというのか。
魔法を通さない布のようなもの。それが杏の注文だった。魔法少女は武器や防具をほとんど使わないためあまり使われることはないが、一応用意された装備品をしまっている倉庫がある。その中から掘り起こしてきたものだ。実際、大して使うメリットもないようだ。
しかし、杏にはそれで充分だった。これをうまく使えば…。
杏が数体目の魔族を葬った時、異空間の壁が破壊される。
予想通りやってきた葵を、杏は揺るぐことのない真っ直ぐな視線で貫く。
「杏ちゃん…また来ちゃったんだ…」
対して葵は心に大きな迷いを秘めていた。カザミを陵辱した後、透から魔力の供給は受けたがまだ充分ではない。それはやはり魔力が多少枯渇していた方が容赦なく魔法少女を責めることができるから、ということだった。葵はこの戦いで杏を倒してしまえば、陵辱してしまえば、自分を抑えられなくなるのではという恐怖に怯えていた。
「葵ちゃん。きっと事情があるんだよね。絶対に私が助けてあげるから。」
杏は強い思いで葵へと告げる。そして、戦いの構えへと移行すると、弱い魔法を数多く葵へと放つ。
葵もそれに応戦し、水の鞭を繰り出す。魔法を避ける必要はない。それよりも、前回のように生身で攻撃してくることを警戒していた。
杏は葵の繰り出す水の鞭を次々に切り落とす。同時に、杏が放った魔法が葵に触れる前に消滅することも確認した。
(やっぱり、魔法は効かないね。)
再確認を終えた杏は、次の行動を起こす。直接魔法で葵を狙うことはせず、葵の周りへと向かって魔法を放った。
「くっ!!」
葵の足元に命中した魔法は地面を捲り上げ、破片が葵へと飛び掛る。魔法が効かないならば、このように間接的に攻撃するほかなかった。しかし、魔法で防御された体にはこの程度では全く歯が立たない。杏は四方八方に魔法を放ち、周囲の建物を倒壊させた。瓦礫が辺りへと崩れ落ち、大きな衝撃を起こす。
杏は少しだけ目を閉じ意識を集中すると、その手から新たな魔法を紡ぎだす。現れたのは葵が繰り出すものと同じ、鞭だった。ただし、水ではなく炎の鞭だ。
「コピーしたの!?」
葵は驚愕を隠せない。初歩の魔法は多くの者が同じように使えるが、葵の水の鞭は葵のオリジナルだ。人には魔法の特性があり、それにあった魔法を自ら作り出す。他人の魔法を見よう見まねでコピーするのは容易なことではないのだ。魔法を扱うものとして、葵にもその困難さは理解できている。杏には確かに魔法の素質があった。
杏は炎の鞭を幾つも伸ばすと、瓦礫を掴み、葵へと投げつけた。
「くぅぅ!!」
さすがに瓦礫をまともに食らえば葵もただでは済まないだろう。葵は体に物理結界を張り巡らせながら、瓦礫を次々に打ち壊す。杏はなお次々に瓦礫を投げつけ、葵に反撃の隙を与えなかった。杏は完全に魔法を使いこなしていた。以前は全く歯が立たなかった葵を押さえ込み、優位に立っている。次第に瓦礫の破片が堆積し砂埃にまみれて、葵の動きと視界が制限され始めた。チャンスとばかりに、杏は葵へと素早く接近する。しかし、葵はその動きに気づき、水の鞭を放った。杏も炎の鞭で応戦する。
二つの魔法が衝突し、大きな衝撃を生む。辺りは煙に包まれた。