バサッバサバサッ!

「えーっと、次は吉崎さんね。……うんうんよくできてます。
最近宿題も真面目にやってくるようになったし、伸び盛りって感じですね。
あとはケアレスミスに気をつければ言うことないんですけど」

シャカッ! ピッ! シャカッシャカッ!
バサッ!

「次は後藤くん、と。あれ、授業態度は不真面目なのに意外ですね。
 要領がいいタイプなのかな、あ、でも文法は苦手みたい」

ピッ! シャカッ! ピッ! ピッ! シャカッ!
バサリ。

「二宮くんはー……あちゃー、これはひどいです。
 授業中何をしてたんでしょう。おまけに悪戯書きまで。
 こんな時だけ『先生の笑顔素敵です』なんて書いてあったって、
 補習は勘弁してあげませんよ」

ピッピッ! シャカッ!


あの仇敵・飯綱との激闘から1ヶ月が経とうとしていたある晩のこと。
誰もいない職員室に、テスト用紙をめくる音と赤ペンの音が響く。
どうやら生徒一人一人の答案に対して独り言を呟くのは
彼女の癖のようで、それが採点の能率を大幅に低下させていた。

「……うーーーーっん、と」

それでもどうやら一区切りしたようで、彼女は軽く背伸びをしてから、
電気スタンドのスイッチをオフにして給湯室へと向かった。

「あれ?」

まだあると思っていたインスタントコーヒーの残りが僅かだったので、
瓶の底を指で叩いて焦げ茶色の粉をカップに落とし、ポットの湯を注いだ。

じょぼぼー……ごひゅっ。

「あ」

どうやらポットの湯もなかったようで、呆然とする彼女の前には
重く澱む超濃口のコーヒーらしきものが現れた。

「最近いいことないなぁ」

溜め息とともにその粉っぽい半液体を流すと、彼女は独り呟いた。

教師としての表の顔をもつ怪盗アンバームーンこと宝月香織は、
期末テストの採点に通知表の作成と大忙しの毎日を送っていた。
ただでさえ教師としては半人前、しかも怪盗と二足の草鞋を履いている。
これまで溜めてきたツケが、ここにきて回ってきたようだった。

ガラガラガラ。

「ふわぁ、寒い寒い。……おーい、宝月ー。生きとるかぁー?
 優しい先輩が差し入れ持ってきてやったでー」
「あ、茂木先生、ありがとうございます!」

関西弁の茂木と呼ばれた女はコンビニ袋を机に置くと、近くの椅子に腰掛けた。

「しかし、採点ぐらいまだ終わらんのん? そんなん流れ作業やんか?」
「そんな! 生徒が一生懸命書いた答案を流れ作業なんて……」
「あーあー、教育論はまた焼酎飲みながらしよな。
 それよりウチが見とったるから早よ片付けてまい」

プシュッ! ごきゅごきゅ。ぷはー。

「茂木先生、なにビールなんか飲んでるんですか!?」
「阿呆。ビールとさきいかは勝者に与えられた特権や」

言っても無駄だと悟った香織は、再び採点作業へと没頭し始めた。
独り言は茂木の手前自粛しているらしく、静かな教室にくちゃくちゃと
さきいかを噛む音と、シャカシャカと赤ペンを走らせる音が響く。

「しかしアレやな。うら若き乙女がこんなんばっかで寂しないか?」
「何の話ですか?」

シャカッ! シャカッ!
くちゃくちゃ。

「もう十二月やで? 十二月言うたらサンタさんや。
 自分、もうサンタさんは見つけたんか?」
「私がまだサンタを信じてると思ってるんですか?」

シャカッ! ピッ! シャカッ!
ごきゅごきゅ。

「ちゃうちゃう、男やオトコ。気になる奴の一人ぐらいおらへんのか?」

シャカッ……
ごきゅっ。

「そんな人いないですよ」
「嘘つけ。今赤ペンの手止まったやないか。白状せえ」

作業の手を止め、ふいに見つめ合う二人。と、同時にプッと吹き出した。

「先輩、ねぎらいに来たんですか? 邪魔しに来たんですか?」
微笑みながら香織は尋ねた。

「両方や」
歯を見せて茂木はニッコリ笑った。


時を同じくして、商店街の片隅にあるバー『タイガーアイ』では、
一人の男がカウンターで黒ビールを飲んでいた。
木目調の落ち着いた空間にデキシージャズが静かに流れる。
カウンターの向こうでは洒落たあご髭を生やしたマスターがグラスを磨いていた。
平日ということもあって店内に他の客の姿は見当たらない。
男は忙しげに折り畳み式の携帯を開いては、考え直して閉じるという行為を
ビールそっちのけで繰り返していた。
その様子を見かねたマスターが話の口火を切る。

「棚橋警部、どうかなさったんですか?」
「いや、ちょっと……な」

言葉を濁す棚橋に、物静かなマスターは珍しくさらに話の水を向けた。
今日の棚橋の表情が踏ん切りがつかず後押しを欲しがっているように見えたからだ。

「お仕事……ですか?」
「いや、そうじゃないんだ。ただ、電話を、ね」

やはり多くを語ろうとしない棚橋だったが、その耳は真っ赤だった。

「想い人……ですね?」
「え? あ、ああ……いや、別にそこまでは」

嘘だ。
ひとたび事件が起これば投げ縄片手に悪人を震え上がらせる棚橋警部も、
どうやら色恋沙汰には不器用らしい。
マスターは微笑み、棚橋は居心地が悪くなったのかビールを一気に飲み干した。

マスターの見透かしたような瞳にしばらくどうしていいかわからない様子の
棚橋だったが、何か思いついたのかふいに重い口を開いた。

「そうだマスター、『ブルー・ムーン』の意味って知ってるかい?」
「そうですね……『出来ない相談』もしくは『叶わぬ恋』。
 バーで口説かれた女性が体よく断る際に使うカクテルです」

一ヶ月ほど前、美術館の屋上で対決した美しい怪盗の言葉をようやく理解する。

「マスター、そういうのって他のカクテルにもあるのかい?」
「ございますよ。花言葉ほど有名ではありませんが」
「そうかい、それじゃ……例えばギムレットは?」
「確か『遠い人を想う』または『長いお別れ』だったかと」
「……それじゃやめとこう、ますますビビってしまいそうだ」

ダークブラウンのやや長めの髪と整った顔立ちのせいか一見手練れに
見えるのだが、なかなかどうしてウブな所があるようだ、とマスターは思う。

「それではダイキリなんていかがでしょう? 意味は『希望』です」
「『希望』……か。過ぎた言葉だけど、それをもらうとしよう」
「かしこまりました」

マスターが手慣れた手つきでシェイカーを振ると、ほどなくして
ショート・グラスに入った白色の液体が目の前に差し出された。
棚橋はそれを一口味わうと、意を決したように携帯を掴んで出て行った。


Prrrr……

突然、職員室に機械的な着信音が響いた。

「なんや、今時着メロも使うてへんのかい」
「普段かかってくることがないですから」

そう言いながら何気なく携帯を取り出した香織は、待受画面に表示された
『棚橋警部』の文字に目を見開いた。

「はい、宝月です。ああ、はい。大丈夫です」

一見自然に振る舞っているようだが、なぜか椅子から立ち上がって
話している香織を見て、茂木はニヤニヤとして香織にちょっかいを出す。

「え? 今週の日曜なら大丈夫ですけど。買い物?
 ……ちょっと茂木先生やめてください! いえ、こちらの話です。
 それじゃ十二時に駅前の広場ですね。はい、おやすみなさい」

香織は電話を切ると、一部始終を聞いていた茂木が見つめているのに気づいた。

「なんや、自分にもちゃんとサンタさんいるやんか」
「そ、そんなんじゃないです。ただの知り合いですよ」
「阿呆。反応見りゃ丸わかりやっちゅうねん。
 どんな相手なん? 写メとかないん?」

結局その日、採点作業は終わらなかった。


一方、遠く離れた『タイガーアイ』では。
携帯を手に戻ってきた棚橋は、カウンターに座りダイキリを飲み干した。

「マスターのおかげだよ。電話してよかった」
「それはよかったですね、おめでとうございます」

そう言うと、マスターは棚橋に一杯のカクテルを差し出した。

「これは私からのおごりです」
「へえ、いつになく気が利くじゃないかマスター。
 これにも意味があったりするのかい?」
「ええ、もちろん。このカクテル、キールの意味は……」

マスターは悪戯好きな子供のような目を棚橋に向けた。

「『最高のめぐり逢い』です」

棚橋は赤面した。