その日の放課後、宝月香織は喫茶店で独り俯いていた。
コーヒーを飲みながら文庫本を読むつもりだったが、ページが頭に入ってこない。

(……私、教師向いてないのかな。友達感覚で楽しいんだけど、
 教師としては何か違う気がする……)
(……それに、「大人の色気を出せ」なんて生徒に言われちゃったし。
 そりゃ私に魅力がないことは知ってるけどさ……)

『魅力がない』というのは単なる彼女の思い込みであり、
童顔ながらも整った顔立ち、それによく似合う黒髪のボブカットは
男性を惹きつけるには十分なのだが、彼女はそれに気づいていない。

現に、彼女に憧れる男が一人、喫茶店のドアを開けた。

「おや、宝月さん。また会いましたね」
「あ、棚橋警部。お仕事お疲れ様です」

そう、先日投げ縄を駆使してアンバームーンと対決した警部である。
棚橋は黒いジャンパーを脱いで椅子にかけ、エスプレッソを注文した。

「お疲れ様……というより見ての通りお疲れ中なんですけどね。
 今夜も捜査会議だし、眠気覚ましにコーヒーでもと思って」
「……えと、捜査会議というと、その、アンバームーンですか?」
「あ、テレビご覧になったんですね。
 恥ずかしい話ですが、先日こてんぱんにやられちゃったもんで大目玉ですよ」

物静かなマスターが運んできたコーヒーを一口飲むと、棚橋は溜め息をついた。

「あ、ごめんなさい、仕事の話なんかして。
 そういえば最近宝月さんの影響で柄にもなく読書始めちゃったんですよ。
 こないだの新刊『ヴォイス』。とても切なくて泣いちゃったなぁ」
「あれ、でもあの本は確かホラーサスペンスのはずじゃ?」
「……え!? あ、こ、こりゃまいったなぁ。あははは……」

頭を掻きながらバツが悪そうに笑う棚橋を見て、
落ち込んでいたはずの香織はクスクスと笑い出した。
その顔を見ると、棚橋はニッコリと微笑んだ。

(……ありがとう、棚橋さん。なんだかお気遣いいただいたみたい)

滅入った気分を吹き飛ばしてくれた棚橋に、香織は心の中で感謝した。


少し遅く帰宅した香織を迎えたのは、執事の神崎だった。

「お帰りなさいませ、お嬢様。夕食の準備は出来ております。
 それとも先に入浴なさいますか?」
「ありがとう、爺や。それじゃご飯にしましょう」
「かしこまりました」

うやうやしく白い頭を垂れると、神崎は料理の盛り付けにかかる。
後を追ってダイニングの椅子に座り、神崎の背中に向かって香織は言った。

「また一人、タロットの持ち主がわかったわ」

しゃもじの手が止まり、神崎はゆっくりと振り向く。

「さようでございますか。して、次はどちらに?」

香織は少し言葉に詰まると、拳をキュッと握り震わせた。
厳しい表情でしばらく沈黙し、ようやく次の言葉を紡ぎ出した。

「神崎もよく知ってる相手です。……あの飯綱 晃」
「ーー!?」

ガシャンッ。
神崎の手から茶碗がこぼれ落ち、音を立てて床に砕けた。


怪盗アンバームーンこと宝月香織が盗みを繰り返すタロットの大半は、
もともと宝月家が所蔵していたものだった。
そもそも、そのタロットは単なる宝石の散りばめられたカードではない。
タロットには古代の魔力が込められており、その魔力を引き出せば
それぞれのカードに応じた能力を与えてくれるアイテムなのだ。
『全て揃えれば願いが一つ叶う』と言い伝えられるそのタロットを、
香織の両親は平和利用するべく密かに研究を続けていた。


ところが、どこからか在処を嗅ぎつけられたものらしく、
十四年前のある晩に宝月家は強盗の襲撃を受けた。
香織の両親は必死の抵抗も空しくこの世を去り、使用人も全て殺された。
生き残ったのはベッドの下で震えていた香織と、たまたま骨折して
入院していた執事の神崎五郎の二人だけだった。
そして、タロットは全て持ち去られた。

描かれていた女性が可愛くて、両親にも内緒で香織が隠し持っていた
『月』のカード、ただ一つを除いて。


数日後、煌びやかな額に入ったタロットの前で下卑た笑いを浮かべながら
テレビの取材を受ける資産家の姿を見た時、香織は悟った。
両親は単なる物取りに殺されたんじゃないと。
あの資産家……飯綱といったか、彼の差し金だったんだと。

唇を噛みながらテレビの電源を消し、香織は一人決意した。
いつかタロットを全て取り戻してやろう。
そして平和のためにその能力を使い、両親のお墓に報告するんだ。


「しかし、飯綱家はあの後事業の経営が傾き、タロットを全て手放したはずでは?」
「この間忍び込んだ館長の話を盗み聞きしたところ、一枚だけ手元に
 残しているみたいです。どうりで闇マーケットに流れていないわけね」

砕けた茶碗のかけらをほうきとちりとりで器用に集めながら、
神崎は心配そうな目を香織に向けた。

「お嬢様、無茶はお控えくださいませ。警察も特別部隊を編成して
 警備にあたることになったようですし、ほとぼりが冷めるのを待たれては……」
「それじゃ駄目ですっ。世間がタロットの魔力に気づけば、必ず悪用する人間が
 現れてしまう。単なる宝石と思われているうちになんとしても取り戻さないと」

これまで怪盗アンバームーンが取り戻したタロットは十四枚。
香織が持っていた『月』のカードを合わせて十五枚を集めたことになる。
残るカードは『吊された男』『恋人』『運命の輪』『隠者』『教皇』そして『世界』。
その六枚を秘められた魔力に気づかれる前に、『月』の能力を駆使して奪い取る。
それこそが怪盗アンバームーンが犯行を繰り返す理由。

「申し訳ありません、十四年前のあの時私めが入院などしていたばっかりに……
 そして今もお嬢様が戦っていらっしゃるのに家事をこなすことしかできず……」
「神崎、それは言わない約束よ」

床に座り込んで打ちひしがれる神崎の体に、香織はそっと手を添える。

「そうそう、特別部隊といえばこの間お目にかかりました。
 まさか顔見知りの警部がその一員とは知りませんでしたけど。
 怪盗たるもの余裕を演じきりましたが、確かにあの投げ縄は厄介でした」
「はて、投げ縄とはまた時代錯誤も甚だしいですな
 その警部、さては西部出身ですかな?」
「……神崎、それは私を馬呼ばわりしてるわけです?」
「い、いえ! 滅相もない!!」


なんだかんだあったけど、それでも平和な一日の終わり。
だが、香織はまだ知らない。
怪盗アンバームーンに、これまでにない苦難が降りかかることを。