「た、タロットが! 私のタロットがないぃッ!!」
「ちっ、やられたか……サーチライト照射! 全員周囲を警戒しろ!」

無線で指示を出し終えると、半狂乱になっている美術館の館長を打ち捨てて
棚橋警部は外へと飛び出した。

(なに、予告状が届いたその日から、既に屋敷は警官隊が密かに包囲している。
いかに相手が怪盗であろうと、確保までにはそう時間はかからないさ)

大きく構えていた警部の目論見は、外に出た瞬間脆くも崩れ去ることになった。
美術館の外の庭園で警備にあたっているはずの警官隊。
彼らは全員後ろ手に縛り上げられ、庭園の中央で静かに水音を奏でている
大きな噴水に浸かり、折り重なって水浴びをしていた。
ただでさえ肌寒い十一月の夜風に冷水まで浴びせられた警官の一人が、
耐えきれず大きなくしゃみをした。

「へーっくしょいッ」

その間の抜けた響きが、指揮官である自分の迂闊さを表しているようで、
棚橋警部は歯噛みをして独り走りだした。
前任の担当者から怪盗の情報は幾分なりとも聞いている。
何とも馬鹿にされた話だが、奴がいるとすればあそこだ。
乱暴に扉を開けて一度館内に戻ると、音を響かせて階段を駆け上り、
息を切らせながら屋上へと通じる梯子を昇った。

いた。


月の柔らかな光に照らされて、一人の女性が屋根の上に佇んでいた。
背を向けているためはっきりとはわからないが、
この状況でこの場所にいること自体が怪盗本人である証だ。
棚橋警部の気配に気づいたのか、怪盗はゆっくりと振り返った。

「遅かったじゃない、中島警視……あら? 違うわね。
 とすると、今夜のデートの相手は貴方がしてくださるわけ?」
「……デ、デートだと? 随分とコケにしてくれるじゃねぇか」

とっさに切り返したものの、反応が遅れたのは棚橋警部にとって不覚だった。
濃紺を基調とした衣装に銀色の髪が映え、まず目を奪われた。
視線を下に向けると、いかにも怪盗らしく目を覆うマスクをしているが、
仮面越しでも美貌の持ち主であろうことが窺い知れた。
そこから覗く琥珀色の澄んだ瞳はまっすぐにこちらを射て、
浮かべている余裕の表情とは裏腹に意志の強さと覚悟が感じられる。
そして体に密着している衣装のせいではっきりとわかる二つの膨らみ。
さらに下を見ればミニスカートから生えた黒タイツの脚線美。
つまり彼は自分の中の雄に負け、しばし任務を忘れて立ちつくしたのだ。

だが、警察官としての誇りが彼を動かしめた。
提げていた携帯用の投げ縄を腰から外し、戦闘態勢をとる。
ヒュンヒュンと小気味よい音を立てて、縄は宙に円を描いた。

「せっかちな方ね。自己紹介ぐらいしていただけないのかしら?」
「ルシアン警察特別犯罪対策部隊所属、棚橋警部だ。
 好きな物はキングスバーガーのポテトセット、嫌いな物は怪盗。……満足かい?」
「ありがとう、棚橋警部。見たところお若いようだけど警部なんてすごいのね。
 でもその割に随分とクラシックな物を使うじゃない」
「銃はどうにも性に合わないのさ。撃っても当たんないし、なッ!」

突如棚橋警部の右手を離れた縄は、生き物の如くうねり女怪盗を襲う。
しかし不安定な足場を楽しむかのようなステップで、
怪盗は易々と初撃をかわしてみせた。

(なるほど、速い……な。だが見たところ相手は丸腰。ここは三階建ての屋上。
さしもの女怪盗も年貢の納め時ってやつだろうさ)

「いい加減、大人しく捕まったらどうだい?
 今なら檻の中にブルー・ムーンでも差し入れてやるぜ?
 青ざめて震えるあんたにはお似合いの一杯ってやつさ」

投げられた縄は不規則に動いて足元を掬ったと思うと、
瞬時に手元に戻り間合いを詰めさせない。
勝利を確信した警部だったが、怪盗は余裕の笑みを浮かべ、
さらに動くスピードを上げた。
投げ縄がその動きについていけなくなり始め、追い詰めていたはずが
いつしか翻弄されているような感覚を棚橋警部は覚えた。
焦りは磨かれた技術に狂いを生じさせる。
精緻に動いていた縄は勢いを失い、明後日の方向へと飛んでいった。

「あっ」

呆けた声をあげる警部の顔の前に、あっという間に間合いを詰めた
女怪盗の顔が近づき、互いの息がかかる距離で静止した。
顔を赤らめて困惑する警部に、怪盗は
誘うような笑顔を向け、軽く唇を重ねた。
予想外の行動にしばらく思考停止した後、その接吻の意味が
嘲笑なのだとようやく気づいた警部に怪盗は小さく囁く。

「悪いけどお断りするわ。
 だって……ブルー・ムーンに込められた意味、知ってる?」
「なにをッ!?」

ブンッ!
鍛え上げられた腕で振り払うも、そこにはもう怪盗はいない。
動きを見失った警部に、空中から声が聞こえた。

「『出来ない相談』よ」
「ーーッ!!?」

……ガスッ!

体重を乗せたブーツの踵が延髄に音を立てて直撃し、白目を剥いて崩れ落ちた。

「カクテルで口説くつもりならビトウィーン・ザ・シーツぐらい言わなきゃ。
 今度はもう少しマシなデートプラン、考えてきてよね?」

オーバーアクション気味に溜め息をついて言い残すと、
女怪盗は屋根から跳躍し、夜の闇へと消えていった。


ある女怪盗の存在が大都会ルシアンバレーを賑わせるように
なったのはいつの頃からだろう。
その怪盗の特異な点は、現金や宝石には目もくれず、
あるタロットカードばかりを狙い犯行に及んでいることに尽きる。

ここでいうタロットとは、ご存知の通り占いに用いるあのタロットである。
だがそこらの店で数千円程度で買えるような玩具とは物が違う。
彼女が盗んでいくタロットは美術的な価値もさることながら、
さりげなくかつ豪華に宝石で装飾されており、金銭的な価値たるや
ひと財産築けるほどだと言われている。

それだけの秘宝を盗んでいく怪盗だが、世間からはほぼ好意的に見られている。
それは、持ち主が皆大衆から恨みを買っている人間だということが大きい。
抜群のプロポーションを持つ美女。
多数の警備員をものともしない鮮やかな手口。
マスコミは連日センセーショナルに騒ぎ立て、民衆はますます義賊だと褒め称えた。

鮮やかな手口といえば、その怪盗は律儀にも事前に予告状をよこしてくるらしい。
それにより配備された警戒網をいとも簡単にすり抜け、皮肉にも盗んだ
タロットの代わりにメッセージカードを残していくのだ。

今夜の美術館においてもその例外ではない。
盗まれる前はそのタロットは確かに豪華な額縁に収められていた。
警戒中の棚橋警部らを聴衆に、館長はそのタロットがいかに価値のあるものか、
そして自分がいかにそれを持つに相応しい人物であるかを力説していた。
しかしその館長の表情を変えたのは、数分の停電の後、その豪華な額縁の中に
忽然と現れた一枚のメッセージカードだった。


『警察の皆さん、夜遅くまでお疲れ様。
 悪徳美術品バイヤーの館長さん、本当にご愁傷様。
 囚われた『塔』のカードは私が救い出しました。
 人知れず悪事を働いても、月が照らしていることを忘れないで』


そして、そのメッセージカードにはいつものように差出人の名が彫られていた。


『怪盗アンバームーン』と。