ホテルニノミヤ。
二宮財閥の所持する財源の一つで、高層ビルの立ち並ぶサクリファイスシティの中でも有数の高さを誇る建物である。
やや一般人には敷居が高く、政財界や芸能界の有名人が宿泊に訪れることが多いこのホテルは
深夜だというのにその存在感を闇の中でハッキリと主張しながらそびえ立っている。
そして半分以上のフロアから光が消えている中、いくつか光源を残す一角。
宿泊専用階である十八階の窓ガラスに一つの影が張り付いていた。
人の形をしているその影は手に持ったピッキングツールを駆使し、あっという間にヒト一人通れるくらいの穴をガラスの隅に開ける。
そのまま人影は静かに開けた穴から侵入し、周囲を警戒するように見回した後そっと壁に背を預けた。

「……ふう、まずは侵入成功っと」

ホッと息をつきながら人影―――怪盗アクアメロディはコスチュームの上着を持ち上げる豊かな膨らみを撫で下ろした。
そうすることで、久々の怪盗仕事にやや緊張していた心が少しずつ落ち着いてくるのを感じる。
予告状を出していないため警察の警備はなく、高層階への侵入とはいえ難度は低め。
しかも深夜というガードの緩い時間帯での行動。
条件的には侵入者側に有利な材料がそろっている。
それだけに失敗が許されず、ブランクを不安に感じていたのだがそれも心配ないようだ。
だが、月夜に浮かぶ女怪盗の顔に油断の文字はない。
侵入はほんの前段階に過ぎず、本番はこれからなのだから。

「人気がない……今のところは情報通り、か」

脱出用の道具を入れたリュックを隠した後、周囲を警戒しながらふかふかの絨毯敷きの廊下を歩いていく。
足音がたたないのは好都合だった。
怪盗少女はするすると薄暗い道を進んでいき、目的地へと近づいていった。
最終ゴールはこのフロアに存在する185号室。
そこにフレイアを所持している火野溶平が宿泊しているはずだった。

「けどこんな高級ホテルのワンフロアを全部貸切にしてるだなんて……」

確かにこのフロアは一般人も利用できる程度の宿泊費ではあるが、それでもかなりの出費を必要とする。
だが、火野は出所してからまだ約一ヶ月の身。
ずっとこのフロアを貸切にして自身の根城としているのは明らかに不自然だった。
ただの放火魔であった火野が出所直後に大金を所持しているはずもない。
にもかかわらず、彼は平然とこのホテルを利用し続けている。
ここから考えられるのは、資金を提供している何者かの存在だ。
警察もそのあたりの線を探っているのだが、今のところ有力な情報は集まっていなかった。

(火野にお金を渡している誰か……それが今回の黒幕の可能性が高い)

今回のアクアメロディとしての第一目標はフレイアの奪取。
しかし、盗まれた残りの五つのエレメントジュエルの在処がわからない今、手がかりは火野にしかない。
フレイアを取り上げた上で火野を無力化し、情報を聞き出す。
それが最良にして最大の結果である以上、今回のミッションにミスは許されない。
仮面の下に緊張を隠し、美音は慎重に、かつ大胆に行動を進めるべく静まった廊下を前進する。

(……? 何なの、この匂い……)

次の廊下を曲がれば目的の部屋といった位置まで進んだところで鼻に漂ってくる異臭。
何かが燃えるときに発生する焦げっぽい臭いが廊下の向こう側から微かに漂ってくる。
火事、という線は流石に考えにくい。
フレイアが暴走して部屋が燃えているという可能性はあるが、それならば当の昔に大惨事になっているはずだ。
目的地に近づくにつれ、むわっとした熱気が美音の肌に纏わりついてくる。

「扉が……開いている?」

辿り着いた火野の部屋の扉は無用心に開け放たれていた。
開いた扉の向こう側からは異臭と熱気が噴出し、陽炎すら見えてくるようだ。
あからさまに怪しいが、今更引き返すわけにもいかない。
できるだけ気配を消しながらドアのすぐ傍まで忍び寄り、ゆっくりと深呼吸。
もはやドア近くの暑さはまるでサウナのようですらあり、容赦なく少女の身体から水分を奪っていく。
年齢にそぐわない色気を発するうなじの上を、何滴もの汗がつうっと流れていった。

(人の気配はある。間違いなくこの部屋の中に火野はいる……!)

熱さだけではない、緊張からの汗が背筋を伝い落ちていく。
この先にいるのは異能の力を振るう犯罪者であり、気を抜けば即座に殺される可能性すらある。
脳裏に浮かぶのは躊躇なく不良たちを火達磨にした火野の狂気に満ちた瞳。
その中に見えたのは、半年前にエレメントジュエルを巡る事件で遭遇した木野や塔亜兄弟と同じ悪意の色だった。

(大丈夫……あの木野や塔亜兄弟にだって私は勝った。怪盗アクアメロディは、フレイヤを取り戻してみせる!)

早鐘のように鼓動する心臓を胸の上から押さえながら、空いたほうの手で上着のポケットを探る。
取り出されたのは小型の発煙筒だった。
勿論、中から出てくるのは煙ではない、無臭透明の眠り薬のガスだ。
例え火野が異能の力を扱おうとも、基本的な身体能力は人間のそれに依存する以上薬の効果には逆らえない。
美音は静かに発煙筒を部屋の中に転がし、ガスが蔓延するのを待った。
待つことしばし、五分ほどの時間が経過する。

(……そろそろかな)

特別製の睡眠ガスは三分ほどで空気に溶け込んで無害になる作りだ。
効き目は十分に高いため、効果のあるうちに一吸いでもすればたちまち眠りに落ちる。
それ故に、室内に誰かがいればその人間は現在間違いなく深い眠りについていることになる。

(油断は禁物。慎重に行かないと)

美音は慎重にドアの向こうを覗き込むと、そろそろと室内へと入り込んでいった。
が、視界内に人の影はない。
電灯が全て消されているため、無音の暗闇がそこには横たわっているだけ。
丹念に壁や天井を調べてみるも、罠や監視カメラが置かれている様子もなかった。

(ここには誰もいない……なら、奥の寝室に?)

物陰を移動しながら人の気配を探る。
やがて見つけた寝室へと続く扉はやはり開け放たれていた。
注意深く扉の向こう側の様子を探ってみる。
すると、うっすらとした光が見えてきた。
よく見れば、赤くゆらゆらと揺れる光がまるで侵入者を誘うように寝室から漏れている。
同時に、かすかではあるがスプリングがきしむ音と女性の声が聞こえてくる。

(睡眠ガスはちゃんと向こうの部屋にも届いているはず、なのにどうして人の声が―――)
「おい、そこにいるんだろ?」
「!?」

眠りについた人間しかいないはずの奥の部屋からの声。
驚愕から上げかけた声を美音は必死に喉の奥で抑え込む。

(……落ち着け、私っ!)

動揺を強引に抑え付け、即座に動けるように足を屈めて右手を懐に差し込む。
視界には人の姿は映ってはいない。
つまり、向こうからもこちらの姿は見えていないはず。
なのにどうして、いや、それよりも何故声の主は眠りについていないのか。
思考を巡らせるアクアメロディだったが、そんなこちらの様子を見透かしたように声の主は更なる声を発してくる。

「安心しな、罠なんて張ってねえさ。まあ、こっちから出向いてやってもいいんだが……今はちょっと手が離せないんでねェ」

まるでこちらにいる自分を把握しているような台詞に疑心がわくが、この場での選択肢は限られていた。
引くか、進むか。
現状においてはその二択しか美音には選択肢がない。

(どうしたら……)

理由はわからないがこちらの存在がバレてしまっている以上、これ以上の前進は危険でしかない。
だが、ここで引けば次はない可能性が高い。
声の主は十中八九火野だろう。
ここで撤退を決断した場合、彼は今後追跡者を警戒し姿をくらませてしまうかもしれない。
ならばあえて火中に飛び込み、栗を拾うのが最善の判断だ。
元々リスクのない盗みなど存在しない。
何よりも、ここまでお膳立てされて引くのは怪盗アクアメロディの沽券に関わる。

(そもそも、この状況で逃がしてくれるか……前も後ろも危険なら、前に進むのが一番!)

相手の言うことを鵜呑みにはできないが、こちらも警戒している以上少なくとも不意打ちをくらう可能性は低いと判断できる。
エレメントジュエルの力は脅威だが、美音とて伊達に木野や塔亜兄弟との戦いを経験したわけではない。
異能の力は確かに強力無比だが、使用者を含めた観点から見れば絶対無敵というわけではないのだ。
扱うのが人間である以上、隙もチャンスもいくらでも作り出すことができるのだから。

「あなたは、火野溶平ね?」
「ああ、そうさ。もうシンキングタイムは終了でいいだろ? どうも顔が見えねえと落ちつかねえ。さっさとこっちに来いよ」

火野がいる寝室までの距離は十メートルもない。
だが、その短い距離の先はエレメントジュエルを持つ男がいると思うと緊張を隠せなかった。
距離を詰めるにつれて熱気が更に増し、サウナのような熱がコスチュームの上から少女の身体を蒸していく。
ぽたり……
一筋の汗が頬からカーペットへと流れ落ちるのと同時に、怪盗少女は寝室に足を踏み入れた。

「よう、待ってたぜ?」
「あんッ! ああうンッ……!」
「なッ、こ、これは!?」

軽い挨拶と淫らな嬌声、そして驚愕が交差する。
仮面少女の目に最初に映ったのは部屋の中央で燃え盛る炎だった。
カーペットやベッドに燃え移ることもなく、ただ人魂のようにゆらゆらと火の塊が空中で揺れている。
大きな焚き火といた程度のその炎の光は寝室を妖しく演出していた。
不思議なことに、その炎は何かを燃やしているというわけでもないのにそこに存在しているように見える。
そんな異常の炎の向こう側に火野溶平は待ち構えていた。
いや、待ち構えていたというのはやや語弊があったかもしれない。
何故なら、彼は臨戦態勢をとっていたわけではなく、ましてや逃げようとしていたわけでもなく。

――ただ、ベッドの上で裸の女性を交わっていただけなのだから。

「あ…ンッ! くぅんっ!」

裸体を惜しげもなくベッドの上で披露している黒髪の女性が長い髪を振り乱しながら男の腰の上で踊る。
その表情は恍惚によって忘我の狭間をさまよっているかのようだ。
睡眠ガスが効いているらしく、女性は時折脱力するように目を閉じかける。
しかし、そのたびに火野の突き上げによって意識を繋げさせられているという状態だった。

(……えっ、あの人は!?)

思いもよらぬ光景に一瞬呆然となるが、すぐに女性に見覚えがあることに気がつく。
彼女はよく雑誌に載っているグラビアアイドルだった。
髪型とスタイル、そして顔がどことなく似ていることから美音は何度か彼女の写真を見せられたことがあった。

「ひひっ、ちょうどこの女がここに泊まっていたんでね。お相手をしてもらっていたんだよ。
 まあ、最初はキーキー抵抗していたんだが……今じゃこの通りさ」
「はぁうんッ! おおうふっ……ひあっ……ふあああああ!!」

火野が腰を強く突き上げるのと同時に女性は果ててしまい、くたりと力なく崩れ落ちていく。
眠ったのか、それとも快楽に気絶したのか。
よく見れば、キングサイズのベッドの上に裸の女性が他にも四人ほどグッタリと横たわって意識を失っていた。
その四人には見覚えはなかったが、全員美女と形容しても申し分ない容姿だ。
全員の身体のところどころには白い液体をこびりついていて、激しい性交の経過が窺い知れる。
焦げ臭い匂いの中に混じる性臭が鼻腔を刺激し、美音の処女としての潔癖さが嫌悪の感情を呼ぶ。

「いやあこのホテルはサイコーだな! いい女を調達するのにコトかかねえ」
「その人達に、何をしたの!」
「オイオイ、そんなこと聞くまでもないだろ? セックスだよ。ま、世間一般では強姦ともいうけどねぇ……ひひっ」
「なんて、ことを……!」

美音が激しい怒りを火野に対して抱いていた。
この男を野放しにするわけにはいかない、その激情が警戒心を忘れさせて女怪盗に足を踏み込ませかける。
しかし男は対面する少女の怒りをどこ吹く風とばかりに受け流し、火傷の痕の残る頬を歪めて笑った。

「怒るなよ。どうせすぐにお前さんもこいつらの仲間入りするんだからよぉ……
 この前の公園じゃあ邪魔が入っちまったが今日こそは俺のモノになってもらうぜ、怪盗アクアメロディちゃん?」
「えっ……」

今にも飛び掛ろうとしていた怪盗少女の動きが反射的に止まった。
この男は対峙している人間がアクアメロディであることを、そしてその仮面の下の素顔を知っている。
その事実が美音の怒りの感情を一時的に封じ、再び警戒心を再燃させた。

思えば違和感は最初からあった。
開けっ放しの扉といい、火野は明らかに侵入者の存在を予め知っているような態度だ。
だが、予告状も出していないのにアクアメロディの侵入のタイミングを予測できるはずがない。
にも関わらず火野はこうして待ち構えていた。
これはつまり、自分がずっと監視されていたことを示しているわけで。

「そんなに驚くことじゃないだろ? 俺の後ろに黒幕がいることくらいはもうわかっているはずだしなァ?」
「……ッ、誰なの!? 誰が、エレメントジュエルを……!」
「さぁて、ね」

知らぬ間に監視されていたという恐怖と嫌悪感、そして危機感が少女の身体中を駆け巡る。
それでもなんとかしぼり出した質問に、しかし火野はニヤニヤととぼけるばかり。

「ま、どうしても知りたいってんなら……服脱いで踊ってくれたら考えてもいいぜ、俺の腰の上でなァ! ひっひ……ひ!?」

バシュンッ!
馬鹿笑いに口を開きかけていた男の右手が突然大きく後方に弾かれた。
ジンジンと痛みが手の甲を襲い、火野は呆然と己の右手を見やる。
赤く染まる手の甲は明らかに何かに撃たれた痕を残していた。

「次は、手じゃないわ。それに、威力もこんなものじゃ済まさない……ッ」
「ッてぇな……何かと思えば水鉄砲か。おいお嬢ちゃん、俺を嘗めてんのか?」

からかう様な口調の火野。
怪盗少女の手には抜き放たれた圧縮水銃、いわゆるウォーターガンが握られていた。
火野の手を弾き飛ばしたように、改造されたその銃の殺傷力は見かけによらず高い。
普通の銃のように貫通力こそはないが、圧縮されて打ち出された水は下手なゴム弾よりも威力がある。
勿論火野もそれくらいは見通していた。
だが、それでもなお放火男は余裕の表情を崩さない。

「大方この前ので火に対抗するには水とか考えたんだろうが、そんなモンで俺を倒せるとでも?」
「フレイアを渡しなさい!」
「聞いてねェし……いいぜぇ、撃ちな。ただし気をつけるこった。一撃で仕留められなかったら罰ゲームだ」

あくまで優位を確信している敵に女怪盗の焦燥がつのる。
だが、いかに宝石の力で身体能力が増していようとも、水圧弾を受ければ無事ではすまないはずだ。
この至近距離ではかわすも容易ではなく、状況は間違いなくこちらが有利。

「……このッ!」

痺れを切らしたのはアクアメロディのほうだった。
ふらりふらりと右手を胸の前辺りで振る火野の額を狙って水圧弾が撃ち放たれる。
弾道は狙いを外すことなくベッドの上の男へと直進。
しかし着弾するその刹那――弾が爆発した。

「きゃあ!」

シュウウゥッ!
水蒸気が白い霧となって男の姿を覆う。
美音は何が起こったのかわからず目を瞬かせた。
やがて、霧が晴れていく。
そこに見えたのは、無傷でカラカラと笑う火野の姿だった。

「だから言ったろ、そんなもんじゃ俺は倒せないって」
「そ、そんな……どうして」
「ひひっ、燃やしただけだよ。俺の火でなァ」

平然と言い放つ男の声に愕然する。
水蒸気の発生から考えて、火野が行ったのは高熱での水圧弾の蒸発。
だが、それを一瞬で行うにはどれだけの熱量が必要なのか。

(ううん、エレメントジュエルの力なら……だけど、こんなことって……!)

木野や塔亜兄弟との戦いで思い知っていたはずなのに、それでもまだジュエルの力を軽視していたのか。
予想していた以上にフレイアの力を引き出している敵に、怪盗少女の心が揺れる。

「ようやくわかったようだな、力の差ってヤツを……それじゃあ、罰ゲームだな」

動揺に打ちひしがれる少女に向けて指鉄砲を構える火野。
勿論その指には輪ゴムすらなく、何の脅威も見当たらない。
だが、まっすぐに伸びた人差し指の先にかすかな火が灯り。

「バンッ!」
「きゃッ……!」

掛け声と同時に、パチンコ玉くらいに質量を増した火球が発射された。
動揺から反応が遅れた美音に火の弾丸をかわす暇はなく、咄嗟に両手を顔の前に差し出して防御する。
高速で飛来する火球はコスチュームの左胸についている『♪』マークに着弾した。
刹那、少女の身体を貫通することなく破裂した火球は爆発的に燃え広がり。
――抵抗する間もなく、アクアメロディの身体は炎の渦に包まれた。